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2014/11/8 更新してないねぇー ねたはあるんだけどね
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こころ
「心を何に喩えよう」と、どこかのテルーが唱っていた。
桜の季節が過ぎて夏も間近になると、何故かこのフレーズを思い出す。
といってもまだ2度目だが。
あの映画は本編よりも、歌の方が印象的だったということだろう。

さて、心を何に喩えよう。
麺に喩えよう。

職人気質の、頑固親爺の心は真っ直ぐで一本芯が通っている。
つまりアルデンテだ。
頑固親爺の心はパスタに喩えることができる。
茹でられても茹でられても、芯を一本残そうと必死に頑張っている。
でも、きっと子供の頃はまだ茹でられた経験が少ないから、強く握りしめられる度にバリバリと音を立てて砕けていたことだろう。

細く長く生きる人間の心はまさにそうめんだ。
このタイプの人間は若干、茹でられることに弱いかもしれない。
茹ですぎに注意。すぐに伸びでブヨブヨになる。
しかし、ごく短時間で完成するそうめんは、パスタよりも手軽だし、糸に形容されるくらいだから、繊細さ、美しさという点では他の追随を許さない。
色も白いし折れやすいし、早熟、天才型と言って良さそうである。

図太い人間といえば、やはりうどんであろう。
うどんは太くて、わりと短めだ。そしてもちもちしている。
弾力があって、なかなか千切れないうえ、茹ですぎにもそこそこ耐性がある。
煮込みうどんだってあるくらいだ。
吸収力も優れていて、もしかすると理想的な心かもしれない。
しかし、真っ直ぐかどうかというと、ややねじくれている。
また、少々柔らかすぎるきらいがあるし、どちらかというと、付和雷同で日和見主義的な印象が否めない。

蕎麦はどうか。
蕎麦はどうか、と問うた時点で、心を麺に喩えるのではなくて、麺を心に喩えるスタンスになっている。
本末転倒である。
しかし、蕎麦のような心の持ち主には出会ってみたいものだ。
というのも、他の麺が小麦粉主体であるのに対して、蕎麦は蕎麦粉主体だからだ。
生い立ちからしてすでに違う。
小麦粉は色々なものになれる可能性を秘めているが、蕎麦粉は蕎麦になる以外に道がない。
運命に囚われたサラブレッド。まさに孤高の麺と言えよう。

私の心はちぢれ麺だ。
何やらグニャグニャとねじ曲がっていて、裏返ったり、絡まったり、とても見苦しい。
小学生の頃、真っ直ぐな心=麺を持ちなさいと教師に言われ、そうなれるよう努力してきたつもりだったが、いくら「自分はパスタだ」「そうめんだ」と思い込もうとしても、ちぢれた麺にはスープが嫌というほど絡みついてくる。
絡みついてくるものをどうすることもできず、絡みつかれるままに生きてきた。
むしろ開き直って、それを誇らしく思うことさえあった。
まったく不甲斐ないことである。

そんなちぢれ麺をどうすれば真っ直ぐな麺にすることができるのだろうか。
長年この命題に取り組んできたが、結論するならば、これはもう無理矢理にでも引っ張り伸ばすしかない。
両端を万力で固定し、千切れるか千切れないかという、限界ギリギリのところまで引き伸ばすのだ。
そうして麺(つまり心)を常に極限状態に置くのである。
これは、いつプツンと千切れるかわからない危険な状態ではあるが、長く維持することで、麺はいつしかそのテンションに慣れていく。
慣れとは恐ろしいもので、これには自分の限界を失念させる力がある。
無論、麺だけに繊細な扱いが要求されるが、それでも、この苦難を乗り越え、万力から解放された暁には、パスタ顔負けの真っ直ぐな麺の出来上がりというわけだ。

ただし、ここでいったん真っ直ぐになったからといって、気を抜いてはいけない。
元々がちぢれ麺である。
こちらが少しでも隙を見せれば、たちまちちぢれようとするだろう。
加えて無理なテンションを強いられていた反動で、そのちぢれようとする力は、かつて経験したことがないほど強大で凶悪なものになっているに違いない。
私はその力に怖じ気づき、結局、麺のちぢれるがままに任せてしまうかもしれない……。

否、ここでちぢれを許しては元も子もない!
もしそれを許せるのならば、最初から好きなだけちぢれさせておけばよかったのだ。
だから私は再び万力を持ち出し、二度とこの麺がちぢれることのないよう更にきつく、きつく、限界を超えるまで引き伸ばさなくてはならない。
たとえその結果、麺が千切れてしまっても、私はその千切れた麺を更に千切れるまで引き延ばさなくてはならないのだ。

こうして真っ直ぐな麺を数本手に入れた私は、しかし、
引っ張られることだけが麺の苦難ではなかったことをやがて知るだろう。
麺にとっての苦難は数多いが、何よりも恐ろしいのは、押し潰そうとする力だ。
パスタもそうめんもうどんも蕎麦も、引っ張られる力にはある程度耐性があるが、押し潰される力にはめっぽう弱い。
潰された麺というのは、何とも無惨なものである。
潰れた麺はペラペラの板状で、真っ直ぐだろうが、ちぢれていようが関係ない。
すると、最初から板状のきしめんはかなり理想的か。

いずれにせよ、麺の本質とはそういうものだ。
穀物の粉を練って伸ばして細長く切ったものが麺だ。
どんな形状を取っていても、それは一時的なものに過ぎず、茹でて潰して団子にしたら、どんな麺でも大差がなくなる。
腹に入ればどれも同じ。
それでも人間というのは麺の有りようにひどく拘るのだから、なかなかどうして、侮れない。
そして何より、ここへ来て私がようやく思い至ったのは、心を麺に喩えたところで得られるものは何もないということだ。
テルーが心を麺に喩えなくて良かったと思う。
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