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2014/11/8 更新してないねぇー ねたはあるんだけどね
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先日。
わたくしは大変に納得のいかない、
また、極めて不条理な状況に遭遇いたしました。
それはまるきりわたくしの生きる能力、
あるいは生命体として至極当然な有り様までもを否定するが如き悪辣な所業で、
こんなことがまかり通る世の中は絶対に間違っている!
と、理性が激しい憤りを訴える傍ら、ふと気がついてみますと、
頭の片隅ではほんのちょっぴり、後ろめたい喜びとでも申しましょうか、
えもいわれぬ充足を感じていたのですから、これはわたくしにとりまして、
ひどく奇妙であると同時に貴重な体験だったと言う他ありません。

それは年に一度、職場で行われる定期健康診断でのことでした。
検査それ自体は一般的なものであり、
特別に楽しかったり、心躍るようなものではございません。
むしろ退屈だとか面倒だとか思っていらっしゃる方が多いでしょう。
わたくしも同感でした。
というのも、もし、わたくしが成長期の小中学生であれば、
やれ身長が五センチ伸びた、十センチ伸びた、
などと言って大喜びもするのでしょうが、
現状でわたくしの身長が五センチも十センチも伸びていたら、
わたくしはたちまちパニックに陥り、
身体の異常を訴えるために病院に駆け込まねばならないからです。
すでに成長期を終えた成人にとって、
健康診断というのは、減点方式の非建設的な検査、
車で言うなら車検です。
異常がなければそれでよし。
せいぜいその程度が、現在のわたくしに得られる充足だったでありましょう。
少なくとも、今回の健康診断に当たって、
わたくしには不安こそあれ、期待などは蚊の涙ほどもありませんでした。

そんなふうでしたから、
わたくしがこの検診に積極的な姿勢を取れるはずもございません。
わたくしは何の努力もしないまま、相手のなすがまま、なされるがまま、
ただひたすらコンベアーに乗った機械のパーツのように、
血を抜き取られ、血圧を測られ、身長体重を計測されていったのです。
それらの数値は呆れてしまうほどに昨年とほぼ同様。
わたくしは、その結果に満足するでもなく、
といって逆に不満を覚えるでもなく、
ただ、生きているなぁ、と漠然と感ずると同時に、
また無性に寂しくもなるのでした。

生きているということは、いずれ衰えるということです。
今の状態を上限とするなら、あとは衰えていくしかありません。
それは寂しいことですし、今は信じたくも認めたくもありませんが、
老化現象はなんぴとたりとも避けられない現実なのです。
今はいい。にしても、身体的成長の止まったわたくしは、
やがて衰えていく自身を思わずにはおられませんでした。
ああ、目に見えて成長し続ける十代の肉体が羨ましい。
どうしてあの頃は早く大人になりたいなんて思ったのだろう。
たとえば「老化も成長のうち──」
などと前向きに考えるのは虚しい詭弁に過ぎないのでしょうか……。

このように健康診断はわたくしを暗澹たる気持ちにさせてくれます。
それまで考えずにいられたことを考えなければならなくなる。
いったい、自分の衰えを測定することに何の価値があるのか!
わたくしはひどく恨めしい気持ちで視力検査へと進みました。
もちろん、まったくもって気乗りがしませんでした。
視力検査など、能力の衰えを示唆する最たるものだからです。
悪くなることはあっても、良くなることはない。
何よりも、わたくしは以前よりも視力が衰えていることを自覚しており、
近々眼鏡を作り替えようかと考えていたくらいです。

担当医師は、中年の女性の方でした。
測定器を指さし、さっそく覗き込むように指示してきます。
わたくしは無為な診断結果にすっかりすさんだ気持ちになっており、
かつまた、自分の身体機能を見限っておりましたから、
医師に命じられるまま、何の感慨もなく諾々と測定器を覗き込みました。
どうせ見えるものは決まっている。
これは予測というよりも確信でした。
そうして目の前の現実が、わたくしの確信を裏切ることはありません。
絶望……というのは言い過ぎでしょう。
けれど、絶望的、というのはほぼ正確だったろうと思います。

例の、一箇所途切れた丸い輪っか。その列。たとえば、【C】
その一番上段の、一番巨大な【C】さえも、
目の悪いわたくしには一見する限り【O】のように見えるのです。
ぼんやりと霞んで、重なって……
まったく見えないわけではないにせよ、
苦労して焦点を合わせてようやく判別できる程度。
目のよかった頃は、「あの一番上の段のやつは要らないんじゃないか、
あんなでっかいの見えないやつはいないだろう」
と、その存在価値すら認めなかったというのに……。
予測していたこととはいえ、やはりそれはショックでした。

「はい。これはどうですか?」
ともあれ、医師がわたくしの心情に構ってくれるはずもなく、
彼女は、いきなり難題を押しつけてきました。
そこに示されたのは、中段のわりと小さな【C】
わたくしには【c】どころか、【・】のように見えるのですが……
それでもしばらくじっと見つめていると、
薄ぼんやりと右側が切れているように見えたので「右」と答えました。
次に示された一段したのものも辛うじて答えることができましたが、
さて、それが当たっていたかどうか。
ほとほと自信はありません。
お粗末な話ではございますが、正直なところ、
このあたりがすでにわたくしの限界だったのです。
おそらく、これ以上、下の段に進んでも無意味。
この瞳はすっかりかつての能力を失ってしまったのだ。
その輝きともども……。
わたくしは心から思いました。

「はい。それではこれはどうですか?」
けれども、こちらの限界を知るよしもない医師は、
むしろ先の解答でわたくしの能力を買いかぶったらしく、
嬉々としてハードルを上げてきます。
次に示されたのは先の二つよりも更に小さな【C】でした。
もちろん、わたくしに判別できるはずがありません。
頭では【C】とわかっていても、見た目には間違いなく【・】です。
今度こそ、本当に限界──。
「えーと……」
しばらく思案しましたが、結局、わたくしは潔く諦めることにしました。
ここで見栄を張って適当に答えても意味がないと思ったからです。
健康診断はあくまでも診断であって、試験や競技ではないのです。

「わかりません」
けれど、何故でしょう。
そう答えたわたくしの声には、微かな恥辱が混じっておりました。
「うーん」
すると、物静かに応じた医師が軽く身じろぎをし、
ほとんどそれとわからない程度に、
「はぁ」
と、小さく溜め息を漏らしたような気がしました。
それは落胆だったのでしょうか。
わたくしは彼女の期待に応えることができず、
彼女を落胆させてしまったのでしょうか……。
「じゃあ、これは……」
そうして次に発せられた彼女の声に微かな憐れみを感じ取ってしまい、
わたくしは、迂闊に「わかりません」と返答したことを後悔しました。
……ああ。
これから先、脆弱なわたくしに与えられるのは、
その能力に見合った易しい問題のみ。
因果応報。仕方のないこととはいえ、
難易度を落とされるという仕打ちが、わたくしに更なる恥辱を与えます。

ところが。
「どうですか?」
いったい、どうしたことでしょう。
わたくしは思わず目を瞠りました。
医師が示したその【C】は、
あろうことか最下段の【C】、最小の【C】だったのです。
そんな、どうして……。
まさか、斯様に無様ななわたくしに未だ期待を残してくだすっている
──などという可能性は万に一つもないでしょう。
するとこの医師はわたくしをからかい、愚弄し、なぶるのか。
わたくしはたちまち屈辱に悶えしました。
中段の【C】が限界だというのに、最下段を答えよとは!

「わかりません……」
努めて冷静に振る舞ったつもりでしたが、
その内心は、込み上げる悔しさに狂わんばかりです。
すると医師はケラケラとわたくしを嘲笑するかのように、
「じゃあ、これ」
と、すぐとなりの【C】を示します。
それはやはり最小の【C】で、わたくしには答えることができない。
「……わかりません」
不思議なものです。
三度続けて「わかりません」と答えたわたくしは、
怒りや悔しさよりも、よりいっそう強烈な羞恥に囚われ、
はっきりと顔面が紅潮するのを感じました。
その声はか細く、消え入るように響いたことでしょう。
ああ、なんという惨めさ。
わたくしはそのあまりに情けない自分の姿を客観視して、
頭の中が真っ白になりました。
そんなはずはないとわかっているのに、周囲の人々までもが、
クスクスとわたくしの無能を嘲っているような気がしてきます……。

やがて、最後の慈悲とばかりに
医師は下から三段目の、比較的大きな【C】を示してくださいました。
それは掛け値なしの憐憫か、寛大な優しさであって、
質の悪い嫌がらせや、いじわるでは決してなかったのだろうと思います。
が、やはりわたくしには見えなかった。
どんなに頑張っても見えなかった。
「…………」
四度目の「わかりません」を、どうしても口に出すことができず、
──それはわたくしに残された最後の矜持だったのですが──
わたくしは貝のような沈黙でもって医師と向き合う他ありませんでした。

「…………」

しばらく、重苦しい沈黙が続きました。
わたくしは困惑せざるをえません。
どうしてこの医師は、易しい問題を与えてくださらないのか。
どうして、お前は目が悪いとはっきり診断してくれないのか。
後生ですから、どうか許してください、もう解放してください……。

すると、そこで思いも寄らないことが起こりました。

「うーん、もうちょっとよく見てくれる?」

朗らかに響き渡ったのは医師の声でした。
わたくしは最初、何を言われたのかよくわかりませんでした。
が、すぐさま立ち直って、促されるままその指示に従いました。
否、従わざるを得なかったのです。
何故なら、医師はわたくしが「わかりません」と答えても、
どういうわけかそれを認めてくれず、
「うーん」とか不服そうに言葉を濁すばかりで、
検査を先に進めようとしないからです。
そのとき、わたくしの後方には視力検査を待つ人の列ができておりました。
「何やってるんだよ、早くしろよ」
という怒気がひしひしと伝わってきて、
にわかに焦りを覚えたわたくしは、その行為の正否を判断する余裕もなく、
ともかく、見えない【C】を見るために死力を尽くさねばなりませんでした。
このときほど何かを必死で見ようとしたことはありません。
日常生活ではあり得ないほど極限まで目を細め、
様々に角度を変えて小さな黒い点を睨みつけ、
それでもわからないので、最終的には直感に頼った格好で、
「ええと、右上?」
と答えました。
しかし、医師は「うーん」と唸って聞いていない様子。
わたくしは、あわてて言い直しました。
「あ、違う。えっと、右ですかね? 右」
すると医師が満足そうに応じました。
「はい。じゃあ、これは?」
そして、すかさず示される最下段。
もちろん、これもわたくしには見えるはずがないのですが、
人間、死に物狂いになると不思議な現象が起こる場合があります。

『──さあ、がんばって!』

それは声ならざる声。
憮然として正面に構えていた医師が、無言ながらも、
懸命にわたくしを応援してくれているような気になってきたのです。
『あきらめちゃダメ。もっとよく見て、よく見るのよ!』
否、彼女は確かに、心の中で声援を送ってくれていたのだと思います。
そればかりか、
『そうだ。お前ならきっと見える。見えるはずだ!』
後列でわたくしの検査を見守る人々さえまでもが──。
『がんばれ! あきらめるな!』

無論、現実として、わたくしの目に映っていたものは、

【 o o o o o 】
【 。。。。。】
【 . . . . . 】

であったことは認めましょう。
しかし、このときのわたくしは、
心眼によって普段見えざるモノを捉えることができた。
虚像の中から実像を見出すことができた。
でなければ、その後に訪れた展開、
まるきり奇跡のような結末はあり得なかったのです。

わたくし「えー、あー、うーん、ひだりぃ……?」
医  師「あれー、そうー? ひだりー?」
わたくし「あ、いや、下かな……」
医  師「うーん、もうちょぉーっと、よく見てくださいねー」
わたくし「あっと、はい。じゃあ、左下、左下です、やっぱり」
医  師「はいはい。じゃあ、これは?」
わたくし「えーと……」

そうして医師は、最後に満面の笑みを浮かべてこうおっしゃいました。

「はい、とりあえず問題ないようですね。
 なんか、前よりもちょっと良くなってますよ」

なんか、前よりもちょっと目の良くなったわたくしは、
心から医師に申し上げました。

──ありがとうございました、と。
comments(7)
素晴らしい
| 涼秋 | 2007/06/22 8:30 PM |
ほんと心底おもしろい
| da | 2007/06/25 10:32 AM |
保守
| 類二 | 2007/06/26 12:09 AM |
コメントする
| レグオバ | 2007/06/28 8:25 PM |
コメントありがとうage
| 類二 | 2007/06/29 11:48 PM |
なんだこの面白過ぎる茶番は
| スネ夫 | 2007/07/09 11:05 AM |
凄い勢いで実話です
| 類二 | 2007/07/14 9:12 PM |










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