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したこと日記
俺は「したこと日記」が嫌いだ。
小学生の頃、旅行記を無理矢理書かせておきながら、
先生たちは「したこと日記」ではいけません、などと注文を付けてきた。
「したこと日記」というのは、まあ「未来日記」の逆バージョンで
「朝起きて○○した。そのあと○○して、○○に出かけた」というように、出来事だけを時系列に従ってひたすら記述していくスタイルだ。

小学生くらいでは、出来事だけを順番に並べて書いてしまうのは
無理のないことだろう。先生たちはそれではつまらないという。
確かに、多くの小学生がそういうパターンの旅行記や日記を書く。
それをいつも見ている先生たちは、刺激がなくてつまらないと感じるだろう。
だが、とうの小学生にしてみれば、旅行は刺激の連続であり、
それを順番に記録することは、彼らにとっての思い出の記録作業である。
読み手はつまらないかもしれないが、小学生各々にとっては、
旅行中の出来事を最初から思い出していくという、実に楽しい作業のはずだ。
したこと日記というのは、読んでみればどれも同じに見えるが、
書いている小学生にとっては、それぞれが個人的でオリジナリティ溢れる唯一無二の思い出なのだ。
それを読み手が「つまらないから」という理由だけで、否定してしまっていいものだろうか。
旅行記やその他文章というのは、読み手があって始めて成立するといわれる。
確かにそうではあるが、読み手が未来の自分という場合だってあるのだ。
あったことをあったままに書いて何が悪い。
そもそも、出来事をありのままに記録するためには、「したこと日記」ほど適切なものはないではないか。
したこと日記が駄目なら、ホームビデオの記録なんか最悪だ。

そんなことをいうと、「したこと日記」肯定派のように思われるかもしれないが、俺は否定派だ。
否定されると更に否定したくなる。(それは肯定という)
悪い癖だ。自分でやってれば世話がない。

とにかく、中学生のころから、したこと日記は書くまいと、一人心に決めていた。
昔から先生の指示に素直に従う、純真な生徒だったことがうかがえる。
大学へ入学する前、昔学校で書かされた旅行記やら文集やらを読み返す機会があった。
俺の旅行記は、旅行中の1エピソードについて、事細かに書かれていることが多かった。
例えば「遊園地」だけ、さらにジェットコースターに乗らなければならなくなった可哀想な俺の心境とまわりの友達の配慮のなさについて、といった具合だ。
当時は素晴らしいものを書いてしまったと、のぼせ上がっていたものだが、読み直してみると、旅行中の思い出は全然出てこない。
むしろその旅行記を書いていたときのことが思い出される。
これは旅行記ではないなと、読み直して気がついた。

どうして「したこと日記」を書きたくなかったか、それを考えてみた。
否定のために否定するような俺が、先生の指示だからと素直に従ったとは思えない。
では、何故か。
たぶん、みんながしたこと日記を書いていたからだ。

「目覚まし時計がピピピピピと鳴って僕は目を覚ましました」
小学校高学年の旅行記は大体そんな具合に始まる。
低学年なら
「朝おきて学校へいきました。○○くんと○○くんと○○ちゃんがいました」
という感じか。
文集ができあがって、それを読むたびに「みんな同じだ」と感じて、次はみんなと違ったふうに書こうと思う。
ところが、そんな考えはみんな同じで、次の文集にも同じような
旅行記が並ぶ。
小学生くらいでは「したこと日記」が何であるのかよくわかっていないらしく、みんな、手を変え品を変えながらも結局「したこと日記」を書く。

中学高校くらいになると知恵が付く。根本的なスタイルの変更が必要だと感じるようになるわけだ。
だが、それは同じ土俵で勝負することを放棄している。
手段のすばらしさだけに満足してしまって、碁盤でチェスをしていることに気付いていない。
高校生になって初めてのクラス文集に、(俺のクラスには何故かそういうものがあって、書く内容はすべて個人任せだった)俺は「MADARA」(漫画)のある1カットをコピーして、そのままそれだけ載せていた。著作権の問題に触れているかもしれない。

要するに、ありきたりの旅行記だと思われるのがイヤだっただけなのだ。
「したこと日記」自体がイヤだったのではなく、それがありふれたものだと思われていたからイヤだったのだ。
流行っているから「遊技王」が嫌いだ、という短絡的思考に等しい。(流行ってなくても遊技王は嫌いだが)

大学では旅行記など書く機会がなかった。そのせいもあるかもしれない、
したこと日記自体について考える余裕が持てるようになった。
結果、「したこと日記」はつまらなくても、無意味ではない。
少なくとも書いている本人にとっては。
という心境にいたった。
結果ではなく過程が大事、という言葉の実践ともいえる。
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