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2014/11/8 更新してないねぇー ねたはあるんだけどね
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Lemmingology#2:We All Fall Down(1/2)
                    *

そのとき、背後で爆音が轟いた。
緩やかな振動。
赤黒い壁面に亀裂が走り、剥離した岩盤が燃えるスープの中に沈んでゆく。
最期の時が来たのだ。
各所に深手を負った洞窟は、すでに崩壊を始めている。
ひび割れの隙間から吹き出すガスは、痛みに悶える怪物の悲鳴だった。
この最低の悪魔は、今まさに死のうとしている。
しかし、なんという浅ましさだろう。
あまたの勇者を呑み干した灼熱の沼、貪欲な悪魔は死の間際に至ってなお新たな贄を求め続けた。そしてついに満たされることなく、己もろとも喰らい尽くそうというのか。
無慈悲にも遺体すら残されなかった仲間たちの墓所。神聖なその場所に一人残され、悪魔が晒した惨めな最期に臨む段になっても、僕の身体のどの部分からも勝利の喜びはこぼれなかった。嘲りの笑みさえありはしない。
地面に突っ伏し澱んだ空気を吸い込んでいるうち、すぅっと意識が遠のいた。体を動かす力はずいぶん前から失われている。
残っているのはわずかな時間。こんなときになっても、僕の記憶は戻ってこない。
僕はどうすればいい?
「……エリー」
焼け爛れめくれあがった唇を動かすと、鼻の奥から粘った液体が流れ込んで、じんわりと舌の上に広がった。ほのかに温かくて、鉄の味がする。
やはり、このミッションは呪われていたのだ。
転がるようにして仰向けになると、彼方に天井が抜け落ちるのが見えた。岩石は音もなく迫り、僕の右側をかすめて溶岩の中に落ちる。細かく砕けた岩の破片が、ところかまわずに降り注いだ。
目に映る光景はひどくダイナミックなのに、僕の周りはとても静かだった。
抜けた天井を見上げると、そこには洞窟の壁面よりもずっと深く澄んだ色の空間がのぞいていて、彼方にいくつも星が瞬いている。あれは、夜空だろうか。
薄れていく意識の片隅で、僕は星が降るのを見た。ふわふわと揺れながら、小さな星はゆっくりと僕に向かって落ちてくる。軽やかに宙を舞って、少しためらいがちに、でもそれはだんだん大きくなって、確かに僕に近づいてくる。
二、三度呼吸すると、不思議な冷気が胸を満たした。次第に指先の感覚が失われていくのを確かめながら、干からびてしまった両眼を、僕は労るように瞼で包む。
暗い。寒い。真っ暗だ。エリー。
僕は死ぬのだろうか。迫ってくるあの星に押しつぶされて。
ぽたり。
突っ張っていた頬に何か柔らかいものが触れて、僕はようやくそれに気がつく。
───ああ、星じゃない。
きっとこれが雪なんだ。
「ユキッ」
僕の意識は僕よりもずっと上空にあって、僕は僕と僕の身体の間でその声を聞く。
懐かしい声。
かわいいエリー。
フローター・エレイン。
どうして戻って来たりなんかするんだ。
僕がもう一度だけ目を開けると、ちょうどエリーが僕の頭上で破裂した。
パンっ!!
「エリーーーィッ」
僕は力の限り叫んだけれど、僕にはもう自分の声を聞くことができなかった。
エリーの時間は尽きたのだ。そうして、もうすぐ僕の時間も。
あとはもう、ただの暗闇。
いったい、僕の記憶はどこに行ったのだろう───。


───こいつが?
『あの天才フローターだって?』
頭の奥で声がする。
『酷いもんだな。見る影もないじゃないか』
嘲笑のこもった陰湿な声。
『自業自得だ。人より少し上手く飛べるくらいで図に乗りおって』
がっしりとした体躯の男。誰だろう? これは。
『哀れだなぁ。本当に何も覚えておらんのか?』
断続的なフラッシュバック。場面は途切れがちに流れていく。
『何? それは駄目だ。我が隊に残すことはできんよ。置いておく理由がない。無論、こんな役立たずは、どこに行っても足手まといだろうがな』
くくく。
『まあ、すがって頼めばなんとかしてやらんこともない』
憐憫を装った侮蔑が、死にかけていた僕の神経を起こして回る。霧が晴れるように、かすんでいた光景が色を持った。
これはほんの数ヶ月前、まだ新しい僕の記憶だ。
『おい、ちゃんと聞こえているのか? んん?』
薄暗い小部屋。
第8大隊司令官ヘクターは蔑むような眼差しで僕を罵っていた。その嬌声に怯えるふうでもなく、僕はひどく上の空で、ひたすら胡乱な表情を浮かべている。赤ん坊のように抵抗するすべを持たない、記憶をなくしたばかりの僕。
『貴様、返事をしろといっているんだ! この、腑抜け野郎ッ』
突然、ヘクターの右手が飛んできた。鉄拳制裁。
その拳をまともに喰らい、僕は大きく左後方にのけぞった。
ヘクターが満足そうに見下ろすのを確かめ、僕は素早く体勢を立て直おして思い切り上司のみぞおちに蹴りを入れる。条理を脅かされた生命の反射だ。
一撃必殺。ヘクターの喉からネズミが潰れたときみたいな音が漏れた。ゆるゆると崩れ落ちるところを狙って、顔面に膝。倒れた後は脇腹に三発、側頭部に二発。まだまだまだまだ、モアアンドモア。
気がつくとヘクターは色々なものを垂らしっぱなしで、ずいぶん情けない格好で床にうずくまっていた。
あの時はわからなかったけれど、どうしてそんな暴力を振るったのか、今はわかる。
僕はあまりに多くのことを忘れすぎた。過酷な任務に対する自信や誇り、不意な理不尽に対する憤りも。
記憶は高速でリプレイされ、色々なことが頭に浮かぶ。
任務中に大怪我をして記憶をなくした僕は、尊大で傲慢で臆病な便所虫ヘクターをリタイヤさせたおかげで二日後には最前線の小部隊に配属されることになった。
日当稼ぎの消耗部隊。
生存率が異常に低いかわりに、報酬だけはべらぼうに高い。二、三ミッションをこなして地上に戻ったら、数年はどんな大家族だって養えるだろう。
過酷な任務を生き抜いたのか、任務が僕を生かしたのか、ともかく僕はそこでひたすら学び直して、掃き溜めの便所虫くらいにはマシになった。そう。今回、この呪われたミッションに参加できるくらいにはマシになったのだ。
それが今の僕のすべて。他には何もない。僕は間抜けだった。
過去を見限り己を取り戻す努力を放棄したくせに、けれどやっぱりどこかでそれを頼りにしているようなところがあって───そう、言ってしまうなら僕は、自身の不遇とかつての自分とに終始甘え続けていたのだろう。浮上するたびに打ち消していた夢想とはいえ、安らかなる救済、それはいつか必ず何らかの形でもって僕のもとに訪れる───そうひとり頑なに信じていた。
僕の本来はすっかり過去の中に閉じこめられ、今の僕は僕であって僕でない。
そんなふうだから、僕は未だに自分の価値を見いだせないでいる。失ったものに固執し、得られる経験を自分の価値に換えることができなかった。
今の僕はこれ以上自分の価値を稼ぐことができない。
そういう人間はただもう死んでいけばいいと思う。
それで充分だろう。
記憶をなくしてからの僕は、人生の何たるかなんてことを考える面倒からすっかり解放されていたのだし、それはいくらか人よりもラッキィなことのように思える。
生きるのに不自由を感じないなら、無理に何かを求めることはない。だから昔のことだって思い出さなくてもいいと思う。僕は僕のままで死んだらいい。
ただ、今際のきわに見た光景がエリーの花火だったってのが残念だ。
どうしてエリーは戻ってきたりしたのだろう。
可哀想なエリー。
間抜けなエリー。
良心なんてもの、誰も省みたりはしないのに。
せめて僕が破片を集めて捨ててあげよう。

そんなふうに考えて、僕はようやく全部思い出すことができたのだ。


                   *

「あなた、気は確か?」
怒気を含んだ息を吐き出して、女は引いていた僕の腕を解放する。
「あんなところでぼんやり立ち止まってるなんて、どういうつもりよ? ゴメスの意志を踏みにじる気? それとも、もう後続はいないと思った?」
「ゴメス?」
僕はつぶやく。エコーみたいに、僕は同じことを繰り返すことしかできない。
「そう。彼が先鋒を引き受けてくれたから───」言って女は胸の前で十字を切る。「あなた……」振り向き、僕を眺めて言葉を止めた。
「いいえ、説明の必要はないわね。あなた、名前は?」
女は鋭い眼差しで僕を睨む。
でも、僕には名前がない。どこかでなくしてしまったのか、そもそも最初からなかったのか、それもよくわからない。僕は前にいる誰かの後ろについていくだけの、ただの金魚の糞だから。
「驚いた。まさか、記憶がないっていうのは本当なの?」
ひとりごとのようにつぶやき、女は僕の服の右袖を軽くはたいた。ぱらぱらと乾いた泥が落ちて、下から青と緑のマーキングが現れる。それを確認すると、彼女は怪訝そうに眉をひそめた。
「私はエレイン。エリーで良いわ」
ぐずぐずしていられない急ぎましょう、と言ってエリーは洞窟の奥へと駆け出した。あわてて僕は追いすがる。しばらく走っても洞窟はずっと同じような風景で、つまらない。
「……おかしい。みんなどこまで進んだの?」
エリーがまたひとりごとを言った。
「みんな?」
僕は繰り返す。
「ええ、先に奥に向かった部隊。別ルートはなかったはずだけど……」
エリーは少しだけ逡巡したようだったけれど、「ともかく、進むしかないわね」と言って歩き出した。
「エリー、待って」呼び止めてもエリーは振り向かない。だから僕は問いかける。
「ねえ、エリー。それでゴメスはどうなったの?」
すると、それまで軽快に地面を蹴っていたエリーの足が止まった。訝るように振り返り、じっと僕を観察するエリー。
「それ、冗談で言ってるわけじゃないのね?」
僕はうなずく。僕は冗談なんて言えないから。
「知らない方がいい」
でも知りたいんだと僕は言った。ゴメスはずっと僕の前にいた人で、だから僕はずっとゴメスの後ろにいたかったのに。
「彼はもう戻らないわ」
僕の前を歩きながらエリーが言う。
「死んだの?」
エリーの肩が小さく震えた。
「そうよ。後続を逃がすために、プレスマシンをたった一人で支えたんだもの」
声もかすかに震えている。きっとエリーは悲しいのだ。
「覚えているかしら? あなた、そこでぼんやり立ち止まっていたのよ」
だから、エリーにあなた気は確か? って僕は言われても仕方がないのかも知れない。
皮肉を言われているのはわかったけれど、僕には受けることも返すこともできなかった。あとから来たエリーは、そこに突っ立っている僕を見つけて僕の腕を引いてくれた。たぶん、それに意味なんてないのだろうけれど。
「……それがゴメスの意志だった」エリーは右手で自分の左肩をさする。「無事に通過した後続は早急に出口までたどり着くことが任務。わかる?」
「わかるよ」僕は答えた。
だったら、と声高に言ったエリーはその先の言葉を続けなかった。
ゴメスのかわりに僕の前に現れたエリーは僕をどこに連れて行ってくれるだろう。

それからしばらく二人とも黙って歩いた。洞窟は相変わらず同じような調子なのでつまらない。
「ねえ、あなた」
急に僕の方を向いてエリーが言った。怒っていると思っていたのに、また話しかけてもらえて僕は嬉しい。
「あなた、季節の中ではどれが好き?」
「季節?」なんだろう、それは。
「そう、春と夏と秋と冬。母が生まれた国にはそれがあったわ。でも、私が育ったのは父の家で、だから私、ずっと南の暖かい国にいたの。とても暑い日や日差しの強い日があって、ここは一年中夏ねって、前に母が言っていたわ」
「夏は暑いもの?」
「そう。夏は暑くて、冬は寒いものなの」
「エリーは夏が好き?」僕が言うと、エリーが少し笑った気がした。
「そうね、嫌いじゃないと思う。でも、暑い日ってあまりいい思い出がないの、私」
「寒い日は?」
「寒い日がある国に行ったことがないわ。だから本当は冬なんて知らない。でも好きよ。季節の中では一番好き。あなたは?」
エリーはどこか楽しそうに問いかける。
夏は暑い。冬は寒い。春と秋はわからない。
「僕も冬が好きだ」
その答えにエリーは優しく微笑むけれど、僕のはただのエコーだった。
「冬のとても寒い日にはね、雪が降るの。雪は知ってる?」
知らない。僕は何も知らない。
「雪は白くて冷たいものよ。柔らかくて、そっと触れないと溶けてしまう」
とても軽いのよ、きっと。エリーは嬉しそうに雪を語る。
「雪は空から降ってくる?」
僕は聞いた。どうしてそんなことを聞いたのかわからない。きっとエリーだってわからない。エリーもそれを見たことはないのだから。
「あなた、昔の記憶がないのよね」
僕には何もない。名前もない。だから記憶だってない。
「でも、覚えることはできるでしょう? ゴメスのこと、覚えられたんだから」
そう、プレスマシンを支えたゴメスはもう死んでしまったけれど。
「これからはあなたのこと、ユキって呼ぶけど、いい?」
「いいよ」
僕は答えた。

そのあとは二人きり、話もしないで歩き続けた。
エリーがどうして急に季節の話なんてのを始めたのか僕には理解できなかったけれど、僕はエリーの付けてくれた名前がとても気に入ったから、しばらくの間はそれで浮かれていることができた。雪は空から降ってくるものだ。つまらない洞窟の風景なんて見なければいい。
「いたわ」
登りの傾斜が少し緩やかになったあたりでエリーが立ち止まった。
正面の道はぷっつりと途切れ、角度のきつい崖に落ち込んでいる。どうやら谷になっているらしかったけれど、こちら側の高さはそれほどでもなかった。見下ろすと、開けた場所に数人の男たちが集まっていた。
「ユキ、降りるわよ」
エリーはためらうことなく崖を滑り降りた。僕もその後に続く。前に進むのは楽しいことだ。下までたどり着くと大柄な男が片手をあげて近寄ってきた。
「よう。無事だったか、エリー」
「おかげさまで。トラップはあのプレスマシンだけだったようね」
「今のところはな。しかし油断はできん。この回廊、少し妙だ。そいつは?」
エリーと僕を交互に見回し、男は怪訝そうに眉をひそめた。僕を見ると、みんな決まってこんな顔をする。
「一緒に基地を出たでしょう? ゴメス隊の生存者。そこで合流したの。ユキよ」
名前を呼ばれて僕はうなずく。僕はユキだ。お前は誰だ。そう思っていると、男は「そうか」とだけ言って、他の男たちの方に戻り始めた。
男の後ろにエリーが続き、僕はその後に付いていく。
「それで、マクシム。こんなところでみんな仲良く立ち往生なんて、ずいぶん余裕ね。のんびりキャンプでも始めるつもり?」
そんなことを言うエリーを見やって、男は大げさに首を振る。
「皮肉はよしてくれ。プレスマシンのせいで人員が足りないんだ。バッシャーもなしで、みんな苛ついてる。あれを見ろよ」
言いながら男は顎をしゃくった。僕たちの正面には垂直に切り立った巨大な壁がそびえている。光量が足りないせいか、頂は見えなかった。後方、さっき僕たちが下ってきた崖なんて比較にならない。周囲に集まった男たちはすがるような目をして先頭を進む男───マクシムを見つめている。
「みんな聞いてくれ。ここを全員で登るのは無理だ。フローター装備も限られているし、強行策を採るにはリスクが大きすぎる」言い聞かせるようにマクシムが言う。「少し戻って迂回路を探すか、あるいは───」
「そんなもの、なかったわ」
断言するエリーに周囲のみんなが注目した。
「それに、今から戻って時間のロスにならないと誰か保証できるの?」
「それは……」
ミッションには保証とか保険とかそういうものはない。
みんな黙ってエリーから視線を逸らした。
「やはりクライマーが先行して様子を見てくるしかないようだな。可能ならそのままルート確保を目指す」マクシムは忌々しそうに険しい崖を見上げ、「最低限二人、できれば三人欲しいところだ。フローター経験のあることが条件だな。志願者は?」
「私が行くわ」
最初に声をあげたのはエリーだった。その後は続かない。みんな押し黙って、お互いに目を合わせないよう気を付けているみたいだった。
しばらく様子を見てからマクシムが少し苛立ったような声で言う。
「……俺も行くとして、あと一人だ。いなければ構わん。俺とエリーで行く」
みんながお互いに顔を見合わせているうちに、エリーはてくてくと奥に進んでさっそく岩壁に手をかけようとしていた。僕はあわててエリーの後を追う。
「僕も行く」
そう言うとマクシムが少し驚いたふうに僕を見たけれど、エリーは微笑んで手招きをしてくれた。
「よし。居残り組は付近に抜け道がないかもう一度よく探してくれ。それから、クライマー隊のルート確保が不可能と判断された場合は、レイモンの指示に従うように。いいか、今回は装備が少ない。くれぐれも無茶はするな。……俺からは以上だ」
マクシムは言い残して壁に取り付く。敬礼はない。ここは軍隊ではないし、いるのはみんな命知らずの勇者ばかりだから。



「おい、お前、ユキとか言ったか」
僕たちが壁を登りはじめて下の連中がずいぶん小さく見えるようになった頃、追いついてきたマクシムが僕を呼んだ。エリーは僕の少し上を登っていて、頂上はまだ見えない。僕は気にしないようにしていたけれど、三人ともずいぶん疲労がたまっている。
「お前、さっきから手元が危なっかしいぞ。まさかクライマーが初めてってことはないだろうが、ちゃんとフローターの経験もあるんだろうな?」
さあ? 僕にそんな経験があるのだろうか。
「そのはずよ」
答えたのはエリーだった。僕のとなりにまで追いついたマクシムはどこか不思議そうにエリーを見上げている。
「大丈夫よ、マクシム。この先にオーバーハングはないと思う。別ルートもなし、バッシャーもなしなら、ここが正解」
頭上から確信に満ちたエリーの声。
「ああ。……だといいんだが」
どうしてフローターの経験が必要なんだろう?
僕が訊ねると、マクシムは呆れたように眉根を寄せた。
「壁面の頂上がせり出しているかもしれないからよ」
答えてくれたのはやっぱりエリーだ。
「呆れたな。こいつ、何も知らないのか?」
「忘れているだけよ。それにね、ユキ。クライマーには命綱がないでしょ。もし手を滑らせて墜落しても、フローターなら生き延びるこができる」
その解答にマクシムは不満の声。
「おいおい、フローター・エレインともあろう者が、ずいぶん消極的な発言じゃないか。確かお前、先に進むためのフライトしかしたくないってんじゃなかったのか?」
「そうよ。転ばぬ先の杖なんてまっぴら。でも勘違いしないで。専門部隊でもない限り、フローターの役目は後続のためのルート確保が最優先なの。そのための保身は恥じるようなことじゃない」
「ヒロイックだな。だが、誉めてくれる奴はいない」
「承知の上よ。ただ、穴の底で救出を待ってるよりはずっとマシ。だからクライマーに志願したの」
「言ってくれるぜ。残った奴らは臆病者か?」
「そうじゃないわ。誰かを犠牲にしてでも生き延びること、それが私たちの掟だもの。無茶をして全滅するより、安全なルートができるのを待つほうが確実。彼らは私たちより少し賢いってだけよ」
「なるほど。物は言いようだ。それを聞いたら、あいつらもさぞ喜ぶことだろうよ!」
これ見よがしに声を張り上げるマクシムに、エリーは少し辟易している。
「やけに絡むわね。どうかしたの? マクシム」
「なあに、とんだ笑い話だと思ってな」
なぁ、と言ってマクシムは僕の方に顔を向けた。歪んだ口元には自虐的な笑みが浮かんでいる。
「あいつらは賢い。すると俺たち三人は、今回一番の馬鹿だってわけだ」
「違うと思うの?」
エリーは振り向かずに言う。マクシムは少し黙った。そう、僕らは三人そろって馬鹿のあつまりで、似たもの同士の仲間なのだ。そう思うと、少し嬉しかった。
「フン、まあな。だが俺はお前ほど割り切れてない。残った奴らを疎ましく思う。そりゃ頭数が多い方が有利だし、ここを登るのが正解だって保証もないんだ。奴らの判断は正当だよ。だが、それは臆病者の判断だろ? 俺は、……いや、同じか。正直言えば俺も残りたかったんだろうな。……他に志願する奴がいたら、俺は、そうしていたかもしれん」
「それなら今からでもそうするといいわ。ここから先は私とユキで行く」
「こいつと? ハッ、こんな足下もおぼつかないような奴と二人で何ができる」
苦笑するマクシムを見て、僕は血まみれヘクターを連想する。
「エリー。英雄気取りも大概にしないと、いつか足下をすくわれるぞ。ここじゃ仲間の死体を踏み越えていける臆病者が生き残るんだ」
「そうね。でも、私は構わないわ」
エリーは言った。
希望を断ち切るような絶壁はまだまだ上へと続いている。先は真っ暗。目に入る汗を拭うこともできないまま、僕たちは延々と壁を登った。疲労はすでに限界を迎え、容赦のない闇はそろそろ人の後悔を誘ってもおかしくなかった。
「なあ、エリー」
いつまでも終わらない石の壁に汗と苛立ちをぶつけながら、マクシムは登る。
「エリー。俺は馬鹿かもしれんが、お人好しじゃない。お前だってそのはずだ。他人を犠牲にしてでも任務を果たすべきだと思ってる。だったらもし、もしもだ。他の奴らがお前よりも先にクライマーに志願していたら───」
「私は、私の判断に従うだけよ。道がなければ造ってでも進む、それが掟でしょう?」
「掟のことじゃない。お前の気持ちを聞いているんだ。エリー、教えてくれ。誰かの善意に期待するのは卑怯なことか? 怖じ気づいてためらうことが悪か? お前は、お前は少しでも人に恐怖を押しつけたいと思ったことはないのか?」
「ないわね」
エリーは正しい。その潔さにマクシムが少しひるんだように見えた。
「知ってる? 恐怖は克服しない限り誰かに押しつけたってなくならないのよ。あなた勘違いしているわ」
ためらうことなく、エリーは終わらない石の壁を登り続ける。
「私、エゴイストなのよ。他人の思惑にまで気を回せないし、誰かの善意が私を助けてくれるとも思ってない。だから誰かが先に志願したとしても、私はここを登ったと思う。それからね、マクシム───」
そこで言葉を切って、初めてエリーはマクシムを見た。
「良心に従うのをためらうことは、悪よ」
「……エリー」
僕は思う。やっぱりマクシムは馬鹿だ。エリーを守りたかったのなら、マクシムは先に一人でこの壁を登れば良かったのだ。そうして道を造ってヒーローになれば良かった。壁を登らずにエリーを待っていたマクシムにはもう、エリーを救済する資格もなければエリーにすがって甘える資格もない。
「らしくないわね。愚痴を聞かせるなんて」
エリーは優しいと僕は思う。
「ああ、そうだな。すまん。だが、嫌な感じがするんだ。妙にピリピリしていて───。このミッション、何か変だと思わないか? 具体的にこれとは言えないが、臭いというか……いや、そうじゃないな。どうやら俺が一番気にくわないのは、お前がここを登ってるってことらしい」
「……そう。見くびられたものね」
エリーは苦笑いして上空を見据えた。
「でも心配してくれているのなら、ありがとう」
いたわりの言葉も虚しく宙に消えていく。
この洞窟は死地にこそふさわしい。

                   *

長い長い垂直の道を乗り越えた僕らを待っていたのは、嘘のように平坦な大地だった。呼吸を整えるだけの短い休息をとって、僕たちはさらに奥へと進んでいく。
「おい、こりゃあ……」
しばらくしてマクシムが驚嘆混じりの声を漏らした。
「フローター装備を持ってきて正解だったみたいね」
横に並んだエリーは確かめるようにして足下を眺める。
そこには巨大な空洞が口を開けていた。頂上の見えない壁の次は底の見えない深い断崖。ここは巨大なテーブルマウンテンで、僕たちは今そのてっぺんにいる。
「かなり深いな。底が見えん」
「あれだけ登ったのだから当然よ。フローターで降下してルートを確認しましょう」
ざっと装備の点検を済ませ僕を見たエリーは「ユキ、飛べる?」と聞いた。
もちろん。僕はうなずく。
「オーケィ。AADがあるから、ある程度の速度に達した時点でキャノピィが自動開傘するわ。特に高度なテクニックはいらないと思うけど、着地でしくじらないためにも下降中は絶対に気を失わないようにして。いい?」
「わかった」
もう一度僕がうなずくと、エリーは「行くわよ」と言って大地の外へ身を投じた。
あっという間に、エリーの姿が闇の中に消えていく。
「先に行くよ、マクシム」
言い残して、僕はすぐさまエリーの後を追った。
一度重力に身を任せてしまうと、自在だった僕の身体は途端に不自由な物体になり果てた。手足は言うことを聞かなくなって常にどこかに逃げ出そうとするし、目に映る光景は絶え間なく上方に流されていく。そうやって、僕はひたすら堕ちていった。
風圧に耐えながら先行するエリーを探していると、ずいぶん下方でパッと黄色い花が咲くのが見えた。間もなく、僕の頭上でも傘が開く。大きく広がった黄色い布が存分に風を受けて僕を揺らした。
ふわふわと、僕らは闇を漂うフローター。
登るのにはあれほど苦労したというのに、降りるとなると拍子抜けするほど短い。速度が距離と時間を縮めるのだ。側面の壁にぶつからないよう気をつけながら、僕は下に地面があることを祈った。

「さすがね、ユキ」
地面に足がつくと、エリーが寄ってきて声をかけた。しばらくして、少し離れた場所にマクシムが着地する。
「どうだ? 向こうに抜けられそうな道は?」
みんなを残してきた壁の方を眺めながらマクシムが言った。
「厳しいわね。これ、ほとんど一枚岩よ。あそこに少し大きめの亀裂があるけど、どこまで続いているか……。行ってみる?」
「いや。そうしてやりたいところだが、確認している時間が惜しい。もし貫通してるようなら、奴らの方でも入り口を見つけられるはずだし、それなら少し進んで先の地形を確かめたほうがいい」
ちくしょう、と言って渋面のマクシムは地面を蹴った。
「どうして全員分のフローター装備がないんだ。バッシャーも使えない、そんな状態でこんなところに送り込むなんて、どうかしてる。残った奴らはあきらめろってことか?」
「マクシム───」慰めるようにエリーが言う。「焦らないで。私たちだけが脱出しても救出率をクリアできないのよ? きっと何か別の方法があるはず……ともかく、脱出口の確認だけでもしておきましょう」
「ああ、そうだな……」
救出率ってのはノルマのことだと前に誰かが教えてくれた。他人を犠牲にしてでも生き延びろ。それが教え込まれた掟だけれど、ノルマを達成できなければ意味がない。掟というのは習わしで、ノルマ達成は絶対条件。そういう難しい話を聞いていると、僕は頭の中をかき回されているみたいで酷くうんざりする。

「それにしても暑いな、ここは」
先細りになり始めた通路を進みながらマクシムが唸った。暑いのは夏だ。
「火山帯に近づいたのかもしれないわね。かなり深くまで潜っているはずだから」
「まったく、マグマ溜まりでもあったらたまらんな。下手なトラップよりもタチが悪い。丸焦げなんてご免だぜ、俺は。───ん? なんだ?」
低くなった天井を右手で支えるようにして、マクシムが立ち止まった。
細い通路の奥、そこは少し開けた小部屋になっていた。言い換えれば袋小路。
前方に、もう道はない。
「行き止まりだと? そんな馬鹿な」
鉄板の打ち付けられた壁に張り付いてマクシムが喚いた。エリーはぐるりと部屋を回りながら、注意深く周囲の様子を観察している。僕もそれに倣った。
洞窟の中に孤立する四角い空間。ゴツゴツとした岩肌を晒しているのは床面だけで、壁も天井も絶望的なくらい無表情な鉄板に覆われている。
視界の悪さに辟易しながらも、直角に交わる壁面の境界を縦に追っていくうち、僕は天井に妙なものを見た。あれは───。
ジェネレーター?
「おい、なぜだ? どうしてここに出口がない?」
うるさく壁を叩いていたマクシムが、半ばよろけるようにして部屋の中央に戻った。両手を掲げ、大げさなポーズ。
「なあ。ここに来るまでに別のルートがあったか?」
いや、ない。
「そうだ。間違いなくここまでは一本道だった。バッシャーが使えないんだから、新たな道を造ることだってできなかった。それなら、どうしたって道なりに進む以外に手はなかったはずだろ? そうとも、俺たちは間違っちゃいない。なのに出口がないままどん詰まりに来ちまうってのは、いったいどういう了見だよ」
大げさな身振りを交え、投げ出すようにマクシムは言う。
「それともナニか? このエリアには、そもそも出口がないってのか?」
「馬鹿なこと言わないで」部屋の隅から、たしなめるようなエリーの声。「これまで一度でも攻略不可能なミッションがあった?」
「……いや。それはそうだが、エリー」
「こっちよ」
手招きするエリーの足下には狭い縦穴があった。人ひとりがやっと抜けられるくらいの、小さな穴。
「下に空洞があるようね。深くはないわ」
「何? 横穴につながってるのか?」
目を輝かせてマクシムが寄ってくる。お調子者め。
「本当だ。いいぞ、エリー。地獄に仏とはお前のことだよ」
「よしてよ。そんな言い方」
仏というのは死人のことだ。ここは地中の牢獄で神や仏は誰かの餌食でしかない。差しのべられた慈悲の手が悪魔の罠じゃないって誰が保証できる?
狭い竪穴を抜けて下層に出ると、マクシムの歓喜は悲嘆に戻った。僕らの前に道はなく、僕らの後ろにそれはあった。薄暗い通路は延々、西の方に続いている。
「多層構造になっているのよ、この回廊」先を睨みながらエリーが言う。「方角的には逆戻りすることになるけど、進むしかないわね」
僕らは洞窟を西に進む。頭上の岩壁を一枚挟んだところには、さっき通過してきた道が横たわっているはずで、マクシムはときどき恨めしそうに天井を見上げた。
「ちくしょう、面倒なつくりをしてやがる。まるで何かの腹の中だ」
───そう。洞窟は巨大な怪物の臓腑なのだ。
マクシムはすぐに、自分の発した言葉の忌まわしさを思い知るだろう。
奥へと進むにつれ、洞窟はいよいよその複雑な構造を顕し始めた。しばらく進んでは突き当たり、縦穴を抜けてまた突き当たる。何度もそんなことを繰り返すうち、僕は頭の中でマッピングするのをやめていた。
自分が今どこにいるかなんてこと、本当は知っていたってどうにもならない。

洞窟はうねうねとこんがらかって、僕たちは進める道を進めるだけ進んだ。
そうしているうちにふと、目の前が歪んだのは錯覚ではなかった。
ぐにゃりぐにゃりと視界が揺れる。
ここは焼けるように蒸し暑く、それはしたり顔で僕らの到着を待っていた。
「クソッ、とことんツイてねぇな」
すべてを呑み込む灼熱のプール。怪物の消化器官を思わせる広大な溶岩溜まりが、僕たちの行く手を遮っている。周囲に脱出口らしきものは見あたらない。
これもたくさんある絶望のうちの一つ。
「待って。あそこ、何かある。向こう側の壁面、中程」
エリーが示す指先を追うと、はたしてそこには横穴があった。溶岩溜まりを挟んでそびえる垂直の壁、その中央にぽっかりと黒い穴が穿たれている。けれど、その穴はあまりにも遠い。
「どうやってあそこまで行く? 俺たちの装備じゃ───」
「大丈夫。そっちの壁面、よく見て」
言われるまま、僕とマクシムは目を凝らした。
「なるほど、よくできてやがる」
溶岩溜まりのぐるりを囲んだ壁面右側には、上方の横穴を目指して、足場になりそうな板が点々と連なっている。酷く、頼りなさそうに見えるけれども。
「充分だわ」
エリーはもう歩き始めていた。生き延びるためには進むしかない。危険を恐れて立ち止まっても、リミットに訪れるのは確実な死だ。
慎重に足下を確かめながら、僕たちは少しずつ壁面を進んだ。溶岩の発する強烈な熱気。それが咽喉を焼くようで声を出すのが億劫になる。水分と集中力とを一気に奪われ、僕らは根を上げることさえ許されない。
「ユキッ!」
突然、エリーが叫んだ。
迂闊な僕。僕の右手は掴んでいた岩と一緒に壁面を離れ、身体はゆるゆると後方に傾いていく。下は溶岩。落ちれば黒こげ。たとえフローターでも助からない。
……それでも、傘が開くくらいの高さはあるだろうか。
僕が馬鹿なことを考えているうちに、エリーの華奢な腕が僕の袖を掴んでいた。そのまま勢いよく壁際に引き戻される。
「ユキ、もう少しのはずなのよッ。がんばって」
エリーは優しかった。声を張り上げて間抜けな僕を叱咤してくれるのだから。溶岩の中で人生をフィニッシュせずに済んだ僕はエリーにお礼を言わなくちゃならない。
「ありがとう、エリー」
でも、そんなふうに励まし合うなんてどうかしてると僕は思う。

やっとのことで目的の横穴までたどり着いたとき、僕たちは崩れ落ちるようにしてその場に座り込んだ。エリーもマクシムもすっかり疲れ切っている様子で、忙しく肩を上げ下げ息をハアハア。僕もそれに倣う。
「さすがに、ふぅ、堪えるな」
「ええ、でも……あと、少し、きっと」
ほとんどうわごとのような会話。
もう少しで何があるのだろう。
残してきたみんなのところに通じるルート?
それとも出口?
出口の先にはまた次の入り口があるだろう。
期待は気休めで励みにはならない。
絶望なんてありきたりで、そこら中に転がっている。
僕らは何のために進むのか。
それを考えるのはずいぶん前からやめていた。

                    *

あと少しと言ったエリーの言葉は正しかった。エリーはいつだって正しい。
僕たちはずっと正しい道を進んできたのだから、最後にだって正しい答えが待っている。必死の思いでたどり着いた横穴だったけれど、その奥に脱出口は見つからなかった。
見つかるのはなぜか死体ばかり。ぐちゃぐちゃになった人間の屍。それはまだ新しいものらしく、狭い通路は血と血の臭いで溢れかえっていた。
おもちゃ箱をひっくり返したようなという比喩が正しいのかわからない。でも、肘より上のない腕だとか太い骨の飛び出した腿だとか、何だかよくわからない気味の悪いもの、そういう半端な血まみれミンチが方々に散らばっている光景はあまりにも馬鹿馬鹿しくて、無邪気な子供のしでかした悪戯のようにしか思えなかった。
タチの悪い冗談。趣味も悪い最低のジョーク。
ヘイ! こっちの身にもなってくれよ。
そう言い出せないのは、生臭さの中に火薬の臭いが混じっているからに他ならない。
「な、なんだよ、こりゃあ、おいッ」
なんて取り乱していたマクシムの大声も聞こえなくなって久しい。僕らはもう疲れ切っていて、ここで何が起こったのかなんてことを一々検証するほどの真摯さはなかった。
「……ボンバー」
エリーのその一言で充分。
壁面はおろか天井床底まで、空間丸ごとえぐり取られたようなこの通路を見れば、検証なんてする必要はない。この道は文字通り、誰かが命に代えて開いた血路だった。

「なんてこった……。待てと、言ったのに」
───馬鹿がッ!
勝手に先走りやがってッ!!
ちくしょうちくしょうちくしょう。
地面に落ちていた薄汚い布きれを摘み上げて、マクシムはずいぶん派手に嗚咽した。布きれは手のひらほどの大きさで、端々が赤黒く焼け切れている。中央に『38』の文字。
今回のミッション、目的はEブロックの踏破にある。攻略のために編成された部隊の構成員マクシム以下30名、僕たちは全員、制服の袖に『38』のナンバーを縫いつけて果敢に前線基地を出発した。
Eブロック第38小隊。それが、破れた布に刻まれた『38』の意味。
30人の仲間は先のトラップですでに半数が失われていた。プレスマシンに押しつぶされたゴメスの意志を無駄にしないため、ノルマを達成し任務を完遂するためにも、僕らは命を粗末にしちゃいけなかったはずだ。
「……マクシム」
袖のナンバーを掻きむしるように腕を抱き、エリーは小さく首を振った。
絶壁の麓で僕たち三人が道を切り開くのを待つはずだった居残り組。マクシムが疎ましく思う臆病者たち。
彼らは別の道を見つけて進んだのだろうか。遅すぎる僕たちの帰りを待ちきれずに。
けれど彼らの進んだ先に出口はなく、刻一刻とリミットは迫り、そうして少しでも奥へ進もうとしたあげく───。
「……辛かったでしょうね」そっとエリーが囁いた。「でもこれが……彼らの選んだ道だった。そういうことでしょう? 誰にも咎めることはできないわ。だって私たちが戻らなかった場合の判断は全部レイモンにって───」
「それにしたってッ!」声を震わせるマクシム。「……ここに来るまで、奴らの誰にも会わなかったんだ」
そう、ボンバーを使ってまで壁を壊したのに、その道を進んで僕らのところまでやって来た者は一人もいない。
「だからこそよ」
エリーは優しくマクシムの肩に触れる。
「後続がないのに、全員でボンバーをかける理由がないわ。だからこっちのルートはあきらめたってことでしょう? ほら見て、向こうにまだ道が続いてる。きっとみんなこの先にいるのよ。ええそう、きっと」
「……ああ」
充満する血の臭い。僕らは酷く回り道をして、ようやくみんなとの合流を果たした。その虚無的なまでの徒労。鉄塊のごとくのしかかる敗北感に、マクシムはまだ立ち直ることができない。沈痛な面持ちで通路の奥を睨むエリーも、きっと同じ気持ちだろう。無意味に仲間を失うのはとても辛いことだから。
そう思いながら僕はずっと、あたりに転がる死体の数を数えていた。

「厳しいようだけれど、ここで立ち止まっていても仕方ないわ。マクシム」
仲間の死体を踏み越えてでも、僕たちは前に進まなくちゃならない。立ち止まることは、英霊たちの意志や想いを踏みにじるのと同じだ。
「さあ、行きましょう」
そう言ってエリーが立ち上がったとき、洞窟の奥から恐ろしい絶叫が響いた。
続いて小刻みな振動。
「何だ?」
弾かれるようにマクシムも立ち上がる。
「この音、……そんなに遠くない」
誰からと言わず僕たちは勢いよく走り出していた。
何かを求めるように、ひたすら奥へ。
もう、撒き散らされた血肉を踏まないよう避けて進むことはできなかった。
「うッ」
「まさか、ここも?」
窪地にもうもうと立ちこめる粉塵を払いのけ、一気に通路を駆け抜けると、そこはに妙に開けた空間が広がっていた。足下には赤黒い岩石が転がり、ホールの所々に天井を支えるような格好で天然の石柱が並んでいる。
「ねえ、あそこ、誰かいる」
ホールのずっと向こう、柱の隙間で何か青いものが動いた気がして僕は言った。
立ち止まった二人が僕の視線を辿る。すると間髪おかず、柱の向こうから耳を塞ぎたくなるような悲鳴がこだました。
「何だ、誰かいるのかッ!?」
再びマクシムが走り出し、僕たちはそのあとに続く。足下は小石の絨毯で走りにくい。
転ばないよう気をつけながら追っていると、いくつか柱を迂回したところで急にマクシムは足を止めた。塞き止められるような格好でエリーと僕が立ち止まる。
呆然と正面を見据えたまま動かないマクシム。脇から覗き込んだとき、突き当たりの壁にもたれ掛かる人影、その姿を遠目にもはっきりと捉えることができた。
「……レイモン?」
つかの間の静寂のあと、マクシムがうめくように呟いた。
居残り組の指揮を任されたレイモン。有能なレイモン。
レイモンは壁を背にぐったりと項垂れ、その姿は酷く負傷しているように見えた。身体のあちこちから血が滲み、足下に大きな血溜まりをつくっている。とても生きているようには見えなかった。
ぐるぅり。僕は周囲に目を凝らし、瞬間、息をのんだ。
死んだようにして壁に張り付いている人影。───それは一つではなかった。
「レイモン! ケッペルもいるのか? そっちは、ドギー?」
取り乱し、大声を張り上げるマクシム。しかし、壁の男たちから応答はない。
戸惑う僕たちを監視するように、洞窟は奇妙な静けさを発散している。
その沈黙が酷く息苦しい。
「何が、何があったんだ、おいッ! みんな!」
「……マ……マクシム」
ようやく、震える声で応えたのはレイモンだった。血まみれの顔を起こし、何かを掴もうとするジェスチャーのように虚しく伸ばされた右手が宙を掻く。
ゆっくりとこちらに向けられた、その潰れかけの瞳。
───何だろう?
そう思ったとき僕は、焦点の合わないレイモンの両眼に何か得体の知れない輝きが宿るのを見た。
「レイモン! おい、無事かッ? しっかりしろ、いったい何があった!?」
マクシムはあわててレイモンに駆け寄ろうとしたけれど───。
「下手な演技はよせッ! マクシムッ!!」
そのぼろぼろの身体のどの部分からそんな力強い声を発したのだろう。レイモンはカッと目を見開き、恐ろしい形相でこちらを睨んだ。
「やってくれたな、隊長様よ。最初から、俺たちは捨て駒だったわけだ」
「な、なんだと……?」
敵意を顕わにしたレイモンの双眸に囚われ、マクシムはたじろぐ。
「おい、どういうことだ? レイモ───」
「とぼけるなッ! みんなわけもわからず死んだんだ。俺もじきに死ぬ。部隊はめでたく全滅だッ! 善人づらのくそったれ野郎め、これが貴様のやり方か? マクシムッ!」
レイモンは叫んだ。口から血を吐き、両の目尻を滲ませて。死にかけのレイモンを支えているのは剥き出しになった怒り、いや、レイモンは憤怒そのものだ。
「何を言ってる? ちゃんと説明しろッ、レイモン!」
「駄目ッ! マクシム」
飛び出そうするマクシムを咄嗟にエリーが引き留めた。
「放せッ! エリー」
「嫌よ! もうカウンターが作動してるの! 間に合わないのよッ」
───カウンター?
僕は注意深くレイモンたちを見た。項垂れる五人の男たち、その頭上には冗談みたいなアラビア数字が回っている。
「茶番だな、マクシム!」
罵るようにレイモンが叫んだ。いつの間にか他の男たちも顔を上げ、みな一様に虚ろな瞳で僕たちを見ている。
「ま、まさかボンバー? 駄目だッ。レイモン! 待ってろ、すぐに解除して───」
「ふざけるなッ!」
レイモンは涙を流して泣いていた。エリーの制止を振り切り、マクシムは強引に前方へ飛び出そうとする。
けれどその間にもカウントは進み、彼らの時間はもう……。
「いいか、マクシム! よく聞けッ」
死を目前にしてなお燃え上がる激情を奮わせ、レイモンは叫ぶ。
「俺たちは怨むぞ、貴様の腐ったその魂を! いつか、この代償は必ず───」
───パン。
パンパン、パン。
乾いた音を立て、レイモンたちは破裂した。
同時に崩れ落ちる岩壁。衝撃波。降りかかる瓦礫に混じって、レイモンたちの身体を形作っていた肉塊が飛来する。
全身に血の雨を浴びても、マクシムは微動だにしなかった。残された呪いの言葉を、しっかりとその胸で受け止めるように。
「危ないッ! ユキッ」
立ちこめる砂埃の中で僕はエリーの声を聞いた。そのまま勢いよく横に突き飛ばされ、傍で岩の砕けた衝撃を感じる。その向こうに、力無く倒れるエリーの影。
何もかもが唐突で、何もかもが曖昧。
ただ、物事は取り返しのつかない方向にだけ進行する。
爆発が引き起こした崩落の規模は予想以上に大きかった。激震と砂埃に包まれ、為すすべもないまま、僕たちは崩れ落ちる岩壁の中に埋もれていった。

                    *

周囲に静けさが戻ったとき、僕らの前には大きな横穴が出現していた。たった今ボンバーで切り開かれた新しい道だ。
「……二人とも大丈夫? 怪我はない?」
一番辛そうに見えるエリーがそう言って、それぞれの怪我の具合をチェックした。さっき僕を庇ったせいで、エリーは右脚から血を流している。せっかく助けてもらったのに、僕はそこかしこに傷を負っていて体中が痛かった。見るとマクシムも僕と大差ない状態のようだったけれど、それ以上にショックが大きいのだろう。ずっと黙って、たった今刻まれたばかりの惨劇の痕を見つめていた。
レイモンたちは死んだ。
自ら犠牲になることを選択して新たな道を造ったのだ。
覚悟の玉砕。
なのにどうしてマクシムを恨んだりするんだろう。
応急処置を終えたエリーはマクシムの腕を掴んで横穴の奥へと移動した。無理にでもそうしなければ、マクシムは僕らを置いて逃げ出したかもしれない。

「どういうことか説明できる? マクシム」
エリーが問いかけても、マクシムは脱力したように首を振るだけで何も語ろうとはしなかった。
堅い岩壁に生気を奪われていくような錯覚。通路に深々と沈黙が募る。
「……さっきの様子からすると、覚悟してボンバーを使ったとは思えない」
少し言いにくそうにエリーが切り出した。
「し、知るもんか。俺だって何が何だか……」何度も首を振り、マクシムは絞り出すように口を動かす。「俺は待ってろと言ったんだ。なのに、どうして……」
苦悩するマクシム。それを強いるのは、レイモンたちの呪詛だろうか。
「……ボンバーの起爆装置」
少し間をおいたあと、囁くようにエリーが言った。
「───リモコン式だって話、聞いたことある?」
どこか投げやりな感じ。
その言葉にマクシムはぴたりと動きを止める。
「何?」
「噂だけどね、スイッチは司令部が押さえていて、いつでも好きなときに装置を作動させられるそうよ。近頃は進んでボンバーに志願するような人は少ないから、そういうシステムも考案されてるって」
「馬鹿な。そんなことは……ありえん話だ」
「でも、遠隔操作が可能ならどんな臆病者でも強制的にボンバーとして活用できる。隊長クラスの現場指揮官が上手く誘導すれば、より効率的よね」
そう言って、エリーはじっとマクシムを見つめた。
その瞳に宿るのは懐疑? それとも侮蔑?
「お、おい、エリー。まさか俺を疑っているのか? 俺があいつらを騙して、道を?」
マクシムの言葉を待たず、すっと視線を逸らすエリー。
「冗談じゃないぞ。俺はそんなもの……そうだ。だいたい、どこにそんな爆弾があるって言うんだ? ボンバーの装備はあらかじめ基地で支給されるんだ。一人ずつ持たされているわけでもないのに、強制爆破なんて……」
「人はとても弱い───」つぶやき、マクシムに背を向けたエリーは僕の腕を取った。
「死ぬとわかっていて先に進むことはできない。何も知らされずに死んでいくのと、覚悟を決めて死を選ぶのと、どちらが幸せなのかしら」
エリーはそっと、血の滲む僕の腕ににハンカチを当ててくれる。
「ユキ、まだ歩けそう?」
どうだろう。さっきからあちこち痛くて嫌になりそうだ。べろんと擦り剥けた手のひらからじわじわと血が滲んで、そこだけが焼けるように熱い。
「おい、待ってくれ、エリー。話を聞けよ」
しつこく弁解しようとするマクシム。マクシムは本当にみんなを欺いてこの道を造らせたのだろうか。そのために、みんなをあの崖の麓に残したのか?
「もういいわ、マクシム。本気で言ってるわけじゃないの。それより、もう時間がない。この先に出口がなければどのみちアウトよ。───さあ、ユキも急いで。あなたたち、まだちゃんと動けるんだから……」
そう言いながら、エリーはふらふらと壁にもたれ掛かった。

あらゆる物事には修復の効かなくなる瞬間というものがある。
しゃがみ込んだエリーの呼吸は目に見えて速くなっているようだったし、頬の筋肉は小刻みに痙攣を繰り返している。右の太股を止血した包帯もすっかり赤く染まっていた。
はっと我に返ったように、マクシムはあわててエリーの傍に駆け寄った。
「おい、馬鹿な冗談はよせよ。担いででも連れて行くぞ、俺は」
「やめてッ」
差し出されたマクシムの腕を払いのけ、エリーは叫んだ。その明瞭な意志とは裏腹に、引き締まった肉体はすっかり衰弱しきっている。
「私はもう駄目よ。無理に動いても出血が増すだけ。どうせ死ぬならここに残る。足手まといになるのは嫌なの」
「馬鹿ッ」今度はマクシムががなった。「こんなところで格好つけるな! ここまで一緒に来たんじゃないか。置いていけるわけがない」
「らしくないわね、マクシム。掟を忘れたの? お荷物を抱えてリミットに間に合わなかったら、それこそ馬鹿よ?」
「馬鹿で結構。 おい、ユキ。手を貸せ」
僕に呼びかけ、強引にエリーを担ぎ上げようとするマクシムだったけれど、エリーはそれを許さない。
「嫌だって言っているでしょう! それとも、はっきり言われなければわからない?」
「おい、あんまり騒ぐなよ。出血が酷くなる。なあに、心配することはねぇよ。これくらいの修羅場、俺はこれまで幾度となく切り抜けてきたんだ。大丈夫、必ず上手く脱出してみせる。お前を足手まといなんかにさせるもんか」
「フン、何を言ってるの? 勘違いしないで!」
なだめるマクシムを無視して、エリーはヒステリックに喚き続ける。
「やめてよ」「うるさい」「放して」「黙れ」その繰り返し。
僕はそんなエリーを見たくない。
マクシムはもう、諦めればいい。
「俺は諦めたくないんだ。頼む、エリー」
「時間がないのよ、マクシム。ちゃんと頭を働かせて。このミッションは失敗したの。レイモンたちが全滅した時点で、ノルマ達成は不可能になった。残っているのは私たち三人だけで、基地との通信手段も与えられていない。わかるでしょう、この状況……」
「ああ。厳しいのはわかってる。だが───」
「厳しいですって? 馬鹿なこと言わないで。状況はすでに最悪なのよッ! エリア内の生命反応が目標達成率を下回った時点で、司令部がどういう判断を下すか、あなただって知らないわけじゃないでしょう?」
その言葉に、マクシムが怯んだのがはっきりとわかった。
エリーの言いたいこと、僕にだってちゃんとわかる。
時間はまだわずかに残っているとはいえ、事実上の任務失敗。最悪の場合、司令部がリミットを切り上げる可能性もあり得るのだ。生存者は一切の救助活動を放棄し、速やかに待避すべし。それが僕らに刻まれた鉄の掟。
「もう基地まで戻ってる時間はないわ。でも近くにきっと出口があるはず。あなたたち二人なら充分間に合う。お願い、時間を無駄にしないで。私のことはいいから、こんなところでぐずぐずしてる場合じゃないって、わかってよ!」
エリーは懇願するようにマクシムを見つめる。
でもそれは嘘だと僕は思った。エリーはマクシムの決断を促すために、そんなことを言っているのに違いない。
「知ったことか!」
吐き捨てたマクシムは拳を固めた。
「このミッションで俺は部下のほとんどを死なせちまった。その上お前まで失うようなことになったら、俺は……」
言い淀むマクシムをよそに、エリーは何かを諦めたように首を振る。
「いいわ、マクシム。それならはっきり言ってあげる。───私はね、あんたと一緒に行って爆弾がわりにされるのはご免だって言ってるの! わかった!?」
エリーは厳しく言い放ち、
「この、卑怯者ッ」
蔑むような眼差しをマクシムに向けた。
「なっ、おいッ! エリィッ!」
───エレイン!!
拳を振り上げたまま絶句して、それきりマクシムは動きを止めた。
洞窟には再び静寂が訪れ、僕たちはお互いに孤立していく。
エリーはマクシムの罪を疑いその卑劣をなじった。でも、本当にそうだろうか。
本当に、レイモンたちは道を切り開くために爆破を強制されたのだろうか。起爆スイッチは今もマクシムの手元にあって、僕らの命はずっとこの男の手に握られているのか?
それを知ったエリーは疑心暗鬼になって、頑なにマクシムを拒むのか?

「言ったでしょう、マクシム。私、エゴイストなのよ。人の気持ちにまで気を回すことなんてできない……」
謝るようにエリーが囁く。
怒りの矛先を探していたマクシムは、おもむろに壁を殴りつけて拳に血を滲ませた。苦渋に満ちたその表情の奥に理解されることのない悲壮を宿して。
エリーが言うように、人はあまりにも弱かった。
繰り出す拳を止め、ぽつりとマクシムが問いかける。
「……傷、痛むのか?」
「いいえ。もうあまり感覚がないの」
エリーは目を閉じて答えた。
「そうか……」
エリーの傍らに歩み寄り、マクシムはゆっくりとその頬を撫でる。
「なあ、エリー。やっぱり俺は臆病者なのかな。お前を連れて行くのが無理なら、せめて一緒にここに残ってやりたいと思う。でも、その決心がつかないんだ……」
「マクシム……」
「俺は行くよ、エリー。だが、お前に卑怯者だって思われたまま立ち去るのは、とても耐えられない。だからお願いだ。信じてくれ。今回のミッション、俺は何も───」
「ええ。わかっているわ、マクシム。それよりも急いで。もう時間がない」
「本当に、……いいのか?」
問いかけるマクシムを見つめたまま、静かにうなずくエリー。
「ごめんなさい。酷いことを言って責めたこと、謝るから」
「……ああ」
───俺を恨まないでくれ、エリー。
そう言い残して、マクシムはエリーのもとから立ち去った。ゆっくりと歩き出し、次第に駆け足になって、暗闇の奥へと消えていくマクシム。
ここでは、仲間の死体を踏み越えていける臆病者が生き残る。
僕はただ遠ざかるその足音を聞くことしかできなかった。
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