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2014/11/8 更新してないねぇー ねたはあるんだけどね
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デジタルカメラ なんでも相談室
第1回   画素数の違いは画質の違い? 〜知ってトクする以外な事実!〜

こんにちは。
今週からこのスペースをお借りして新連載をさせていただくことになりました、
デジカメ大好き☆カメ子です。
全6031回にわたってお送りさせていただきます。よろしくね♪
毎回、皆さんから寄せられる、いまさら人に聞けない素朴なギモンを、ズバっと解決しちゃいます!!
ではさっそくいってみましょう。今週紹介するお便りは、
ペンネーム・マーシー大好きっ娘!さん(20)からいただいた質問です!


Q1.はじめまして。マーシー大好きっ娘!(20歳、短大生)です。デジカメを買おうと思っています。でもいっぱいありすぎて何をえらんだらいいのかわかりません。何がいいんですか?

A1.ハイ、よく寄せられる質問です。
デジカメにはいくつかの特徴があります。違いをよく吟味した上で決めましょう。
大きく分けると、2種類。デジタル一眼レフ(デジ一眼)と、コンパクトデジカメ(コンデジ)です。
デジ一眼とコンデジの大きな違いは、デジ一眼のほうが画質が良い(圧倒的!)かわりに、大きく、重く、デザインはどれも似たり寄ったりなのがマイナスポイントです。
しかし、レンズが交換できるので、一度本体を買ってしまえば、あとは撮りたい写真に合わせてレンズを取り替えられるのが最大の特徴です。
コンデジは、とにかく携帯性重視。それから扱いやすさ。今のコンデジは、シャッターを押すだけで、手軽にだれでもきれいな写真を撮ることができるのです。
ただしコンデジといっても、その種類は多岐にわたり、中にはデジ一眼と見た目がそれほど変わらないモデルもあります。こういった機種はズーム機能に優れています。
そして大事なポイントですが、画質と携帯性はトレードオフです。
一般に、画質の良いモデルほど、大きくゴツくなりますし、軽くて小さいものほど画質が劣る、または機能が削減されている傾向にあります。
(あくまでおおざっぱな話ですよ!)
どれを買ったらいい、と一概に言えるものではありませんので、自分の使用目的、予算にあったカメラを選ぶようにしましょう。
マーシー大好き!さんはどうやら初心者のようなので、まずは携帯性重視のコンデジを買ってみて、とにかく色々な写真を撮ってみることをおすすめします。


Q2.は?もっと一言で言ってくれませんか?何買えばいいのか聞いているだけなんですが。

A2.呂布は国士無双です。



Q3.ありがとうとてもわかりやすかったです。画素数はどれくらいがいいですか?20歳の短大生にとって1000万画素と800万画素では大きく違いますか?

A3.初心者には、1000万画素と800万画素の違いは、まずわからないでしょう。
普通の用途であれば、500万画素もあれば十分なので、現在売られているデジカメに関しては画素数を気にすることはありません。
画素数にこだわるよりは、使い勝手、顔認識や手振れ補正機能などの付加機能、撮れる写真の仕上がりの好みなどを重視したほうがいいですよ。
初心者には信じられないかもしれませんが、1000万画素と800万画素では、800万画素のほうが写りが良い場合もあります。



Q4.何?さっきから初心者初心者って。俺のこと初心者だとでも思ってんの?

A4.それより男性だと思いませんでした。



Q5.俺傷付いちゃった。俺を初心者の女子大生扱いしたこと謝ってくれる?

A5.初心者の女子大生扱いして申し訳ありませんでした。



Q6.さっき俺聞き逃がさなかったんだけど、1000万画素より800万画素の方が良く写るってどういうことよ?

A6.ハイ。たとえば、コンデジの1000万画素とデジ一眼の800万画素では、デジ一眼の方が画質は圧倒的にいいんです。
なぜかというと、それはレンズに写っているものを記録する、撮像素子という電子部品(フィルムのかわりですね)の大きさ(面積)が関わってくるからです。この撮像素子は、大きければ大きいほど、たくさんの情報を詰め込むことができるので、画質に大きく関わってきます。
高級機である、フルサイズと呼ばれるデジ一眼の撮像素子は、フィルムカメラで使用するフィルムと同等の大きさ(36×24mm)、
またAPS-Cサイズと呼ばれるデジ一眼は、フィルムカメラ後期に登場した、APSサイズのフィルムとほぼ同等の撮像素子(23.4×16.7mmより気持ち小さめ)を持っています。
一方、コンデジの撮像素子は、1/2.5インチ型あたりが主流で、面積にすると5.7×4.3mm。一眼の撮像素子と比べると、全然、もう笑ってしまうくらい小さいのです!!
この撮像素子の面積の違いが、画質を大きく左右するのです!

そして、ここからが本題です!
デジ一眼の1000万画素と800万画素、またはコンデジの1000万画素と800万画素、というように同じ土俵の対決であっても、
800万画素のほうが良く映る場合があるんです!
さて、同じ撮像素子では、1000万画素と800万画素はどのように記録されるのか?
その秘密と



Q7.おいコラ待てちょっとそこで中断だ。されるのか?って何よ。聞いてんのはこっちだよ。何ビックリマークまで使ってテンション上がってんの?

A7.あなたに聞いてるわけではなく、文章のつなぎのために?マークを使いました。
その秘密とは、これこれこういうわけなのです・・・と文章を続けるつもりだったのですが。



Q8.言い訳とかみっともねーよ。だいたい、もっと初心者にもわかるように丁寧に説明しろっての。全然わかんねー。

A8.でも、あなたは初心者ではないのでしょう?



Q9.誰がそんなこと言ったよ?もういっぺん読み返してみろよ。

A9.誰もそんなこと言っておりませんでした。



Q10.マーシーに言いつけてやる。

A10.どのマーシー?
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もう戻せない
通勤電車の移動時間ほど世の中に無駄なものはないが、
とりわけ、すし詰め状態の満員電車で揉みくちゃにされながら立ち尽くしている時間というのは、もう救いようのない程に最低最悪の部類である。

人生は長いようでいて短い。
ひとりの人間に与えられた時間というのは限られていて、目的を果たすためには一分一秒たりとも無駄にすることはできない。
だというのに。
通勤電車とはいったい何だ。何様のつもりだ。
仕事という重大な目的を前にしたサラリーマンが、どうして20分も30分もぼんやり立ち尽くしていなければならないのか。
30分もあれば、ひと狩りしてじゅうぶんお釣りがくるではないか。
いったい、通勤電車のどこに我々の貴重な時間を奪う権利があるというのか。

無論、時間は使いようである。
通勤電車に揺られる数十分ないし数時間を、如何に有意義な時間に変えられるか。
それは通勤者各々に課せられた永遠の命題と言っていい。
通勤電車こそ毎日訪れる珠玉の数十分、とまではいかないにしても、上手くすれば、それなりに価値のある経験をつむことは可能なはずだ。

私はたいてい、本を読む。
本を読むことでこの無意味な時間を価値あるものに変えようと努めている。
読んでいるもの自体の価値については特に触れないが、これは断じて、どうでもいい暇つぶしの類ではない。
暇つぶしというのは手持ちぶさたに、目的もなく無駄な時間を過ごすことだ。
電車の中で興味もない中吊り広告を隅から隅まで丹念に読み漁り、誤字脱字、句読点の位置の一々にまで文句をつけてやろうと目を光らせているような状態がこれにあたる。
私の読書の場合、これは明確な目的を持っているから、決して無駄な時間ではない。
私の読書の目的というのは、もちろん、読破することである。

先日、こんなことがあった。
その日は人身事故の影響で早朝から電車が止まっていた。
折しも通勤ラッシュのピーク時。
駅は携帯電話を耳にあてがう人々で溢れかえり、一向やってくる気配のない上り電車に、サラリーマンたちの苛立ちもピークに達しようかという頃合いだった。
ほどなくして電車の運転は再開されたものの、都合2時間かけてホームに溜め込まれたサラリーマンどもの数といったら。
想像を絶する数のサラリーマンどもが、ようやく到着した電車にわらわらと群がり、すでに満員状態である車両にもかまわず、むりむりと無理矢理に乗り込んでいく。乗り込んでいくというより、自ら肉壁にめり込んでゆく。
手足は言うに及ばず、内臓までもが自由を奪われ、何百という人間がぎゅうぎゅうと圧迫され続ける筒状の車内は、さながら人肉ソーセージのようで、吐き気を催す。
飽和状態の更に上、これ以上は物理的に不可能という人口密集地で、私は本を読んでいた。
いや、読もうと試みていた。
何故なら、私には本を読破するという崇高な目的があったからだ。
私はこれからの数十分を価値ある時間に変えなくてはならない。
たとえそこが人肉ソーセージの内部であろうと、この目的を達成するためには決して苦難を厭うてはならないのである。

しかし状況が状況だけに、この読書は困難の連続だった。
普段であれば30センチほど本を体から離して、ちょうど良い距離で文字を追えるのだが、このときはあまりの人間の密集ぶりに、文字と両眼との距離は、おそらく5センチ以内になっていた。
もう、開いた本が鼻先にくっついている。
芳しい紙の匂いさえ嗅げるほどだ。
むろん、文章を判読することなど不可能に近い。
それでもどうにかして読んでやろうと躍起になっていると、2駅ほど通過したあたりで、隣からほとんど殺気に近い気配が感じられた。
見ると、丸々とよく肥えたおっさんが、忌々しげな目つきでこちらを睨んでいる。
私ははたと気がついた。
よもや肘でも当ててしまったか、と素早く近辺を検めたが、このすし詰め状態で互いの体が接触しないはずもない。
完全に密着して、肘鉄を食らわすことの方が難しいのだ。
では何故、このおっさんは私を標的にしているのか。
するとおっさんが舌打ち混じりに言う。
「こんなときに本なんか読むなよ」と。

カチンときた。
こんなときとはどんなときだ。
むしろこんなときだからこそ、私は本の角が人に触れたりしないよう、常に細心の注意を払っていたのだ。
そのおかげで、本はほとんど顔面にくっついてしまって、文字などまったく読めていないのである。
だというのに、このおっさんときたら、私が悠々と本を読んでいるとでも思ったか。
本を顔面に押しつけて立っている男の惨めさも知らないで。
迷惑というなら、あんたの腹の方がよっぽど迷惑だ。
それに、あっちの奥でPSPに興じている若者は迷惑ではないとでもいうのか。
ごつごつしたでかいバッグを足下に置いている、あの登山家らしき男は迷惑ではないとでもいうのか。
私は思わず叫びたい衝動に駆られたが、どうにかこらえた。
あまりの密集状態に皆、イライラしている。
普段なら気にもしないことが、ついつい気になってしまう。
それだけのことだ。
しかし、ここで頭を下げるのも癪だったので、「戻せない」とだけ、ありのままの事実を伝えた。
戻せない。本当に。
あまりに人が密集しすぎて、本を鞄に戻すことさえできなかった。
仕方がないので、私は本を顔面に押しつけたまましばらくやり過ごさなくてはならなかった。

それにしても。
腹が立つのは、このおっさんの主張だった。
このおっさんは、満員電車の中で本なんか読むなと言う。
くどいようだが、私は人の迷惑にならないよう、それこそぴったりと、開いた本を顔面に押しつけていたのだから、本自体が迷惑だったということはあるまい。
事実、このおっさんに私の本は少しも接触していなかった。
するとこのおっさんが文句を言ったのは、本自体ではなく、本を読んでいる私に対して、ということになる。
それはつまり、
「みんなが苦しんでるときに、一人だけ本なんか読んで面白がってんじゃねぇよ」
という、道徳的な意味合いだったのではないだろうか。
馬鹿を言うな、と言ってやりたい。
私は決して面白がってなどいなかったし、そもそも本だって読めていなかったのだ。
そして何よりも、
「みんなが苦しんでるんだからお前も苦しめ」
という、その理不尽極まる蒙昧な主張が許せない。
なるほど。ともすると、戦後高度経済成長期の日本には、そんな風潮があったかもしれない。が、
まったく度し難い、というものだ。
よしんばこのおっさんの主張に従い、皆でこの苦しみに耐えたとして、そこに待っているものはいったい何か。
満員電車で揉みくちゃにされて、隣にいる赤の他人を憎らしく思い、遅れの原因を作った事故者、あるいは自殺者を傍迷惑な人間と蔑み、ねちねちと愚痴を言い、ひたすら遅刻の言い訳を考えて暇を潰す。

まったく、なんという無駄な時間。
世の中にこれほど無為で無駄な時間があるだろうか。
ただぼんやり突っ立っているよりも程度が低い。
あのおっさんは、私にそんな時間を強要したのだ。
そう思うと無性に腹が立ってきて、意地でも本を読んでやろうという気持ちになった。
私はこの本を読破する。
明確な目的を持つ私は、暇つぶしで揉みくちゃになっている人々とは違う。
もう本の角が人に当たろうがどうしようが、知ったことではない。
この目的は他人の不快を凌駕する。

そうして、公衆道徳などクソ喰らえ、という気持ちで本を読み続けたのだが、いったいそのとき何の本を読んでいたのか、今になってどうしても思い出せないので困る。
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and the winner is.....
やあ、みんな!
みんなは液体ばんそうこうを知っているかい?
アレは大した代物だね。
何がすごいかって匂いがすごい。
ほとんどセメダインそのものだよ。
セメダインっていうのは、プラモデルを作るときとかに使うあのセメダインのことなんだけどさ、
液体ばんそうこうも基本的には同じコンセプトだと思うんだ。
つまり、傷口を接着剤でくっつけて治してやろう、っていう発想。
僕はこれまでその存在は名前くらいしか知らなかったんだけど、
数日前に職場で指を切ってしまってね、
たまたま同僚が液体ばんそうこうを持っていたから、
ちょっと貸してもらったんだ。
その同僚は「水ばんそうこう」って言ってたけど、
まあきっと同じものだよね。

それで実際に使ってみると、これが思った以上にボンドなわけ。
ボンドっていうか、セメダイン?
昔、木工用ボンドを手の甲とかに塗って、
乾いてから剥がすとまるで皮がめくれていくみたいで、
それが面白くて何度も遊んだ記憶があるけど、
それとほとんど一緒なんだよね。
ちょっと違うのは、乾いた後の状態で、
液体ばんそうこうの場合、木工用ボンドみたいなしなやかさはなくて、
どちらかというと瞬間接着剤に近いかな、っていうところ。

いやぁ、それにしてもこういう機械的な治療を望んでいた僕には
まったくうってつけの代物だよ。
人間をプラモデルみたいに治せるなんてほんと、夢みたい。
ネジ止めとか、ハンダつけとか、家電の修理ってゾクゾクするでしょ?
美容整形もパテとヤスリでどうにかできたら最高なのにね。

でも僕、すっかり勘違いしていて、
ほんとに接着剤のつもりで傷口に液体ばんそうこうを塗り込んじゃったんだ。
この傷っていうのは指の背中側の皮がべろんとめくれたような状態だったんだけど、それを接着するような感じで薬を塗って、皮と肉をくっつけたわけ。
だって、接着剤ってそういう使い方するでしょう。
でも、そしたらどうなったと思う?
もう皮と肉の間に接着剤の膜ができちゃって大変!
くっつくどころか、完全に壁を形成しているよ、皮と肉の間に。
これじゃ細胞同士が分断されちゃって、くっつくものもくっつかないよね。
そうなんだ。
本来、液体ばんそうこうは傷口の上に被膜を作って保護するものであって、
決して接着剤代わりにしてはいけなかったんだ。
それを知らずに使ってしまった僕は散々だよ。
このままじゃえぐれた部分が腐れ落ちると思って、
仕方なく剥がそうとしたら、その痛いこと痛いこと。
ペリペリって、剥がすたびに肉が引っ張られて……
ううう、
なんだか涙が滲んじゃうよね、本当。

今はちょっと高級なばんそうこうを貼ってずいぶん良くなっているけど、
みんなも薬の使い方には充分気をつけた方がいいよ。
これは僕からのアドバイス。
あと、液体ばんそうこうでプラモデルを作るのもやめた方がいいかな。
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SaaSモデルによるアプリケーション構築における問題点
青椒肉絲は素晴らしい料理だ。
よく
「無人島に何かひとつだけ×××をもっていくとしたら?」
などというような
くだらない、かつ無意味な質問をしてくる人がいるが、
かりに無人島に何かひとつだけ青椒肉×を持っていくとしたら、
青椒肉絲しかないといえる。
何といっても肉、たけのこ、ピーマンの三つどもえだ。
この、一見何の関係もなさそうな三者を組み合わせるという
逆転の発想がすごい。
奇跡の出会いといっても過言では無い。
そして細切りだ。この3つの食材はすべて細切りだ。細い。細さこそ命。
その細さは青椒肉絲の専売特許だ。
そしてこの細切りされた3つの食材が、正体不明のソースと
絡み合って実にうまい。
この料理を考えた人はえらい。
よくノーベル賞ものだ、とか使い古された表現を使う人がいるが、
それでは青椒肉絲を褒め称える表現としてまったくふさわしくない。
せめてノーベル賞五連覇くらいはいってもらいたいものである。
自分がもし鹿児島産黒豚にうまれかわったら、ぜひ自分の肉は青椒肉絲に
使ってもらいたいと考えているため、うまい肉になるように
今からビールを過剰摂取している。

麻婆茄子も至高の料理といえる。
もし無人島にひとつだけ麻婆×子をもっていくとしたら、
まちがいなく麻婆茄子を選ぶであろう。
本来であれば麻婆響子といきたいところだが、麻婆にまみれた響子さん
(いや、婆さんになってしまった響子さんか)を想像すると
なんともいえない気持ちになるので我慢することにする。
麻婆といえば麻婆豆腐などと言い出す愚か者がいるかもしれないが、
自分から言わせれば麻婆豆腐など豆腐がなければただの腐だ。
対して麻婆茄子はもはや麻婆茄子様とお呼びせねばならないほど
高貴な存在である。麻婆茄子大先生様でも問題ない。
安っぽいテレビの料理紹介番組風にいえば、麻婆と茄子が恋に落ちた、
というところか。
それか麻婆と茄子が織り成す絶妙のハーモニーといったところか。
どちらにしても麻婆茄子を褒め称える表現としては
まったくふさわしくない。
せめて麻婆と茄子が見逃し三振、くらいはいってもらいたいものだ。
それにしても麻婆茄子の真骨頂といえば、
あの麻婆と呼ばれるえたいのしれない半液状の部分だ。
ひき肉と混ざり合ってできるあれこそ麻婆だ。
自分がもし茄子にうまれかわったら、
ぜひ高橋名人をさんざん追い掛け回したいと考えているため、
速い茄子になるようにいまからビールを過剰摂取している。
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吾輩は (下)
恐怖というのはどんなときでもつきまとう。
まるで影のように、いつでも、どこにでも、ついて回る。
真夏の炎天下、白くまぶしい砂浜で恋人と戯れていようとも、影が消えることはない。
太陽がまぶしく輝けば輝くほど、むしろ影はその濃さを増していく。
影を恐れて闇に溶け込もうとすれば、恐怖はますます大きくなるばかりだ。
ところが恐怖というものは、気にさえしなければどうということはない。
どこにでもついて回る自分自身の影を常に恐れる者はいない。
決して離れることのないこの気味悪い暗闇は、くどいほどに日常に入り込み、ついには人の目からその本質を隠してしまった。
人々は影の存在を忘れてしまったかのように、日々安穏と過ごしている。
ときどき影が妙に気になることがある。
普段気にもしなかった影が、突如恐怖を呼び覚ます。
そういうとき影は、見事に溶け込んでいた日常からすっかり分離して、今まで隠していた本性をさらけ出すようだ。
出し惜しみする気配もない。
影の恐ろしさに気がつくと、人は瞼を閉じてさらなる暗闇で影を消し去ろうとする。
それでも一度本性を顕した影はなかなか立ち去ろうとはしない。
恐る恐る瞼を開けてみると、そこには更に濃度を増した影が待ちかまえている。
思うに恐怖を孕んだ影というのは、人の心が照らし出した恐怖の一面とでもいうべきものではなかろうか。
影の存在すら忘れている日常では、影に恐怖を感じることは少しもないのに、たとえ僅かでも恐怖を感じた心で影に臨めば、影はその恐怖を増大して映し出すのだ。
だから影は、敢えて気にしないのがよい。
恐怖は常につきまとう影のようなものだといった。
影をいちいち気にして生きている者がいないように、恐怖を常に感じる者もまたいない。
恐怖は常につきまとっているのだろうが、人はそれを忘れることができる。
だが、それは曇りの日の影に等しい。
雲が太陽を隠してしまうと、影は濃度を薄くする。
あたりの景色に溶け込んですっかり消えてしまったかのうように思わせる。
しかし影は消えてはいない。
雲の隙間から太陽が顔を出せば、影はたちまち姿を現す。
恐怖というのもこれと同様で、恐怖を照らし出すものが姿を隠せば、恐怖もまたあたりに溶け込んでしまうのだろう。
すると人は恐怖を忘れたかのように振る舞うことができる。
だからときどき恐怖を照らし出すものが姿を現すと、人は思い出したように恐怖に震えるのだ。
それでは恐怖を照らし出しているものとは一体何だ?
人の感情を照らし出すのは人の心に決まっている。
そして大抵の場合、恐怖を照らし出しているのは己の弱い心なのだ。
弱い心こそが恐怖を照らし出すとはなんと皮肉なことか。
影を産み出す太陽と対を成すものが、恐怖を産み出す弱い心とは!!

プリズニャンになった今でもそんなことを考えるとは思わなかった。
昼寝から覚めると窓から射し込む光もすっかり少なくなって、部屋の中は薄暗くなっていた。
この部屋は東向きの窓が一つしかないから、日が差すのは朝のうちだけだ。
薄暗いこの部屋が、影と恐怖がどうのこうのということを考えさせたのかもしれない。
結論からいうと、プリズニャンになったため、会社は無断欠勤したことになる。

ついつい、いつもの癖で時計を探してしまった。
プリズニャンになったのだから、時間なんか気にしなければいいのに。
仕事のことなんか気にしなければいいのに。
黒い時計が床に置いてあった。
針を見ると2時12分。後10分で2時22分だ。
かれこれ8時間近く眠ったことになる。
寝過ぎだろう。
昨日は早く眠ったはずなのにこんなに昼寝をしてしまうとは。
もしかしたらプリズニャンの体質なのかもしれない。
プリズニャンはどうか知らないが、猫というのは夜行性で昼間は体が動かない、という情報を思い出した。
普段から早寝早起きの規則正しい生活をしていたわけではないが、それでも極力不摂生には注意していたので、昼夜が逆転してしまうというのは気分が良くない。
今夜は無理をしてでも早めに寝よう。
そうだ。
猫は夜行性かもしれないが、
必ずしもすべてのプリズニャンが夜行性であるとは限らない。
昼間行動するプリズニャンがいたっておかしくはない。
たとえプリズニャンになったからといったって、何もかもプリズニャンのように振る舞う必要はないのではないか?
いや、もちろんプリズニャンらしく振る舞うことができないから、こんなことを言っているのではなくて。

それはともかく、せっかくプリズニャンなので、四つん這いでお尻をつきだして背中を伸ばしてみた。
妙な体勢で8時間も眠っていたせいか、伸びがとても気持ちよかった。
歩き方を忘れるといけないのでしばらくぐるぐる回って歩く練習。
うまくいかないことは繰り返し練習するに限る。
さすがに歩き方くらいは覚えていたようで、2周目にはもう飽きていた。
実に短絡的だが、お腹がすいていることに気がつく。
そういえば、朝起きてすぐに昼寝をしてしまったので朝食をとっていない。
今、2時22分なので昼食にも遅い。
でも3時が近いので、おやつにしようと思った。

とりあえず冷蔵庫に向かった。
きっと何かあるだろう。だって冷蔵庫だ。
ところが、そこで問題が発生した。
扉が開かない。
開けられない。
プリズニャンの手の形は冷蔵庫の扉を開けるのには適していない。
何だか急に色々なことが面倒くさくなった。
鏡のときと同じだ。
しかし、今度はそうもいかない。
鏡は見なくても生きていけるが、冷蔵庫を開けられないと生きていけない。
生命の危機が関わってくると何でもできる気になってくるから不思議だ。
とにかくガリガリやってみることにした。
猫が玄関の扉をガリガリやって開けてしまうのを見たことがあったので、ちょっと自信があった。
プリズニャンだって猫の端くれだ。
これがプリズムニャンだったら危なかったかもしれないが。

最初は扉に指がひっかからずに苦労したが、ちょっと力を入れてみたら、指先からにゅうっと爪が出て扉にひっかかった。
猫の肉球を押すと爪が出るというのはよく知られている。
プリズニャンもだいたい同じ仕組みなのだろう。
後でじっくり観察してみようと思った。
後ろ足で踏ん張って力任せに扉を引っ張ると、あっさり冷蔵庫が開いた。
ほぼ予想していた通り、中はあまり充実していなかったが、メグミルクが目に付いた。
プリズニャンにミルクとはなかなか粋な計らいだ。
しかし、そのメグミルクは1リットルのパックだったので諦めた。
パックを掴めないのだから仕方がない。
その他には豚肉、タマネギ、ニンジン、それからジャガイモなんかがあったけれど、肝心のカレールゥは見あたらなかった。
カレーの具がほとんどあるのに、ルゥを切らしているとはなんと迂闊な。
更によく探すと封が切られたスライスハムがあった。
賞味期限を確認してからちょっとつまもうと思ったけれど、手ではつかめなかったので直接囓った。
冷蔵庫に頭をつっこんでハムを囓るなんて、生まれて初めての経験だ。
そのせいか、よくあるハムなのに高級な味がした。

そういえば、プリズニャンは箸が使えない。
当たり前のことだけれど、やっぱり不便だ。
わざわざ箸の持ち方を覚えて、箸を用意して、箸を使ってものを挟んで食べる方がよっぽど不便だという気もするけれど、それでも箸を使えない方が不便なのだ。
箸が持てないようにフォークも持てない。
爪楊枝もダメ。
やっぱりプリズニャンは直接口でかじらなければ食事ができないようだ。
これからはプリズニャンの食事を見ても、「下品だなぁ」なんて思わないようにしよう。
彼らはそうしなければ食事ができないのであって、仕方なくああしているのだ。
本当はもっと上品に食事をしたいはずだし、もし箸が使えればきっと箸を使って食べるだろう。
だってその方が便利なのだから。

会社から電話が掛かってきた。
最初は「どうした」とか、「大丈夫か?」とか、心配そうな声を発していた上司だったが、相手がプリズニャンだとわかると、途端にカンカンに怒り出した。
カンカンて何だろう。
カンカン照りのカンカンか?
「すみません、プリズニャンになってしまったので、今日は休みます」
「今日はって……お前、明日は来られるのか?」
「ああ、はい、えっと、行けたとしてもたぶんプリズニャンですが」

上司がプリズニャンに理解のある人間で良かった。
「プリズニャンでも良いから、来られるなら来い」
と言うから、明日は出勤することにする。
そのためには幾つものハードルを越えなくてはならない。
例えば、この牢獄のような部屋から脱出することとか。

うーん、先行きはわりと不安だ。
でも、きっと大丈夫だろう。
どうせプリズニャンになったって、やることは同じなのだ。
できることはできるし、できないことはできない。
「プリズニャンだから仕方がないな」って、
見逃してもらえるとありがたいんだけど。
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吾輩は (上)
朝、目が覚めるとプリズニャンになっていた。

プリズニャンは気楽でうらやましいなー、なんて思っていたけれど、実際にプリズニャンになってみるとそうでもない。
傍目に見るのと実際とではずいぶん違うものだ。
一見、息ぴったりの電池と豆電球の関係にも微妙な齟齬があるみたいに、プリズニャンにだってプリズニャンなりの苦悩がある。
生きているということは、もうそれだけで苦悩みたいなものなんだろう。
それにしても、これから会社に行かなくてはならないというのに、プリズニャンなんかになってしまって、大丈夫だろうか?

さて、プリズニャンになって困ったこととといえば。
まず、あの衝撃のシマシマ模様が自分では案外見えにくい、ということがショックだった。
可愛らしい生き物というのは、もしかすると自分の可愛らしさに気がついていない可能性が高いのではないか?
それからあと、普通に歩くことが案外難しい。
今まで両手を地面につけて歩くことなんてなかったから、その格好自体に抵抗があるし、妙に体が柔らかくてしっくりこない。
コンニャクみたいにフニャフニャだ。
それでも「プリズニャンが二足歩行はまずいよなぁ」と思って、結局四足歩行することにした。
したはいいけど、どうにもぎこちない。
とりあえず右手を一歩前に。次いで左足、左手、右足、というようにカメレオンさながら、いちいち確認しながら移動していく。
だから動きが非常にスローでイライラする。
あまりにも思うように歩けないので、思い切って立ち上がってみたが、そっちの方がよっぽど難しいことに気がついた。
こういう難しいことを平気でこなしている本物のプリズニャンは本当に偉いなぁと思う。

それでも、しばらく我慢して四足歩行を続けているとさすがに馴れてきて、どうにかまともに歩けるようになった。
真っ直ぐ進もうと思えば進めるし、ここで曲がろうと思えば、ほとんど自在に曲がることができる。
バックだってできる。
見た目以上に手足が短いのには辟易したが、人間はどんな環境にも適応できるものだ。

それからしばらく同じ場所をぐるぐる歩き回るなどして独自の訓練を続けた。
結果、これでほぼ歩行はマスターしたかな、と自分なりに納得し始めた頃、ふと、本当にこういう動きでいいのかなぁ? と疑問を覚えるようになった。
これまではとりあえず自分の動きやすいように動いて、一番無理のないスタイルで結果的に目的を果たせればいい、という思いで行動していたわけだが、それが果たして正しいプリズニャンの動きだろうか?

記憶を端から引っ張り出してみたが、プリズニャンの正しい歩き方を思い出すことはできなかった。
もしかしたら、右の前足と後ろ足が一緒に前にでるのかもしれないし、右前足と左後足が同時に動くのかもしれない。
実は歩かずにゴロゴロ転がりながら前進するのかもしれない。

こうなると急に不安になった。
もしもみっともない歩き方だったらどうしよう。
知らない人が見てもちゃんとプリズニャンに見えるだろうか?
見た目はプリズニャンなのに、動きでベロニャーゴだと思われたら最悪だ。
そういうことをあれこれ考えてしまうと立ち行かなくなる。
世間体というのかな、こういうの。
あまり気にしたくないけど、でもわりと大事なんだよね、こういうの。
これからプリズニャンとして生きていくからには、せめてプリズニャンらしく振る舞わなくては。
ああでも。
このときほどプリズニャンの正しい歩き方をちゃんと勉強しておけばよかったと強く思ったことはない。

で。
やっぱりどうにも気になって仕方がないので、とりあえず鏡の前まで行くことにした。
こういうことはちゃんと確認しておかないと気持ちが悪い。
確認して気持ちが良くなればプリズニャンになれるのか、といえばた甚だ疑問なのだけれども。
まあいい。ナルシストは何も自分の美しさだけを追求しているわけではあるまい。
せめてプリズニャンぽく見えればそれで良いのだ。
「ぽい」ってだけで、案外許してくれる人は多いものだから。
にゃんにゃんにゃーん、と鏡に向かう。
しかしところが。
なんと鏡が見えない。
鏡は高さ1メートルくらいの机の上に置いてあって、プリズニャンの背丈ではとても届かないのだ。
でも、プリズニャンならピョンと飛び跳ねれば届く距離だ。
あいつらは信じられないくらい高いところでもジャンプして登ってしまう。
そういう光景は以前に何度か目にしたことがあったので、ああ、プリズニャンならよかったのにと思った。

いやはや参った。
参った魚は目でわかる。
しかしさてはてどうしたものか。
もちろんこういうときには思い切りが大切だということはよく知っていた。
なせばなる。一か八か、自分の力を信じてやってみる。きっとできる。
そうだ、思い切りと思い込みが重要なのだ!
さあ!
跳べ! 跳べ 翔べ!

しかし、実のところ、とてもそうは思えなかった。
そうりゃあそうだ。
どう頑張ったって、人間、自分の背丈の3倍近くあるところまでジャンプできるわけがない。
しかも、両手を床に着けた姿勢でだぞ?
いくら見た目がプリズニャンだからって、そんなの……。
仕方がないのであきらめることにした。

なんだか急に色々なことが面倒くさくなった。
「まぁいいか、プリズニャンだし」
そう思ったら眠くなった。
馴れない体で動き回ったせいかもしれない。
うつらうつらと瞼が重くなった。
参ったなぁ。これから仕事に行かなきゃ行けないのに。
でも、俺今プリズニャンだしなぁ。
猫みたいに前肢でくりくり目元を擦ってみたりする。
日差しがとても気持ちよくて、お尻のあたりがムズムズした。
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類二特別
晩夏のターフに快足自慢の18頭が集結しました
新潟競馬場第12レースは類二特別
サラ系4歳以上のオープン戦 すっかり名物となりました直線1000mで争われます

各馬順調にゲートインしていきます
最後大外枠 スペシウム光線が入りまして
枠入り完了
スタートしました

おっと波動拳
弱パンチでのスタートになってしまいました
それ以外はまずまずといったところ

さて先手を取ったのは芝を刈りつつ気円斬
押して押して 外からペガサス流星拳が並びかけていこうというところ
そこへ北斗百烈拳も加わって先行争いは熾烈です

少し離れてシンガリ人気のメラが必死の追走 地方競馬アリアハンからの参戦でどこまでやれるか
さらには覇王翔吼拳 ようやく習得してこれが初出走
セックスピストルズ かかりぎみに上がっていって先頭に立った 鞍上6体の間で内紛が起こっている模様
おっとここでファイアーボール コース上に群生するパックンフラワーに
衝突して消滅 競走を中止しております 早くも審議の赤ランプ点灯
鞍上マリオは小さくなりましたが無事のようです

残り2ハロンを切りました
大リーグボール ここでいっぱいになったか 地面に落ちて転がっています
つられるようにして霊丸も消滅の模様
それを見るようにアバンストラッシュ スルスルと上がっていった
ショックガン絶好の位置 鞍上のび太の手が動いて抜群の手ごたえだ

さあ残り1ハロン ここでかめはめ波がやってきた! 一気に先頭に立つ勢い
タイガーショットとイーグルショットが並んでサッカーゴールに突き刺さっている!
おっと大外から一気にメガフレア! メガフレア! しかしここで召喚時間終了
波乱の類二特別 19頭が一団となったままゴールイン!
しかし勝ったのはレーザービーム! レーザービームです! 鞍上イチローしてやったり!
そして2着につの丸
類二特別はつの丸が2着を制しました!!
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東京クリスピィ
 
ゲームの世界に登場する呪文を、もし現実世界で使うことができたら?

あつい。暑い。
この夏の暑さは、どうかしている。
アイスクリームよりも早く溶けてしまいそうな脳で、こんなことを考えてみた。
ゲーム少年であれば、誰もが一度はこの夢を抱いたことがあるだろう。
呪文が使えれば、あんなことやこんなことが手軽に実現できてしまうのだ。うひひ。
これは楽しい。そんなことができたら・・・という夢を今から想像してみよう。

さて、呪文といっても色々なゲームの色々な呪文(魔法)があるから、ここではさしあたり、ドラクエの世界で使われているものに限って話を進める。
そうすると、やはりレムオル(姿を消す呪文。なんと透明人間になれる!)、
アバカム(鍵のかかった扉を開けてしまう!)
ピオリム(素早くなれる!)
ルーラ(まあ瞬間移動)
あたりが人気どころになるだろう。あとはホイミ(治癒)あたりが欲しいところだ。
とても暑いこの季節、ヒャド(氷の塊を放つ)なんてのも便利かもしれない。

だがしかし、はやまるなかれ。少し落ち着いて考えよう。
まず押さえておきたいのは、ドラクエ界では誰でもどんな呪文でも使えるわけではない、という点だ。
使えるようになる(可能性のある)呪文は、生まれつき、もしくは職業を決めた時点で決定されている。
その呪文を使うにふさわしい経験をつんで、初めて使用可能になるわけだ。魔法使いがいくら修行を積んだとしても、決してホイミを使うことはできない。
というわけで出鼻をくじくようだが、普通の人では、残念ながらそう簡単にレムオルアバカムピオリムルーラの最強コンボは使えない。
なんだ、せっかく「現実世界で呪文が使えたら?」なんて夢のある話をしてるわりには現実的で面白くないじゃないか。
しかたない。現実なんてそんなもんだ。
夢や空想を語るにしても多少の現実感は必要だ。

そうなると、現実的には、俺程度の器ではせいぜいレベル25(とりあえず年齢イコールレベルということにしよう)くらいでメラを覚える程度で精一杯だろう。
俺の職業は魔法使いや僧侶ではないし、ましてや勇者でもなんでもないただの会社員なのだ。
メラは指先から小さな火の玉を出す呪文だ。もっと上級レベルになれば、メラミ(メラよりずっと大きな火球)やメラゾーマ(メラミよりずっと大きな炎の塊)を操ることができるようになるわけだが、当然ながらそんなものを覚えることは俺にはできないはずだ。
しかしながら、この理論でいけば既に俺はメラが使えるではないか。
なぜなら俺は30歳だ。レベルに換算すれば30だ。
メラでもちょっとうれしいぞ。だって憧れていた呪文が使えるんだもの。


さあ、そんなこんなで、俺は現実世界で呪文が使えるようになっていたわけだが、ようやくここからが本番だ。
この呪文で、あんなことやこんなことを手軽に実現してしまおう。うひひ。

まずはタバコに火をつけてやるのだ。
ライター不要だ。すごいぞ俺!
しかし残念ながら俺は現在タバコを嗜んでいない。既にやめてしまったのだ。
「すいません」
はい?
「ちょっとタバコ吸いたいんですけど火切らしちゃったんで、メラもらえますか?」
ああ、どうぞどうぞ。メラ!
「プハー。ありがとうございます。うーんやっぱタバコは美味い。いやあ最近はどこへ行っても禁煙禁煙で、喫煙者は肩身が狭いですよ。まったく世知辛い世の中になったもんですなあ」
知るか。くそっ。俺はこんなことのためにメラを覚えたんじゃないぞ。
タバコをすいたいのにすいませんなどと声をかけてくるようなやつにメラなんかしなきゃよかった。
MPの無駄だ。
これでは宝の持ち腐れじゃないか。何か他に有効活用はできないものか。

「ちょっとあなた。ガス台の調子がおかしくて火がつかないんだけど」
ほれきた。
嫁がお困りになられている。
今こそ嫁に俺の力を見せ付けるチャンスだ。威厳を取り戻すチャンスだ。
俺にまかせろ!メラッ!
「はあ?そんなライターみたいな火でチャーハン炒められると思ってんの?もっと強火にしてよ」
無茶言うな。メラの威力ではこんなもんだ。
「使えないわね。さっさとガス台の修理を依頼してちょうだい。まったく、せっかく新しいマンションに引っ越したってのにオール電化にしないからこんなことになんのよ。ガスなんて時代遅れなエネルギー、いつまでも使ってらんないわ。ていうか、この際だからオール電化にしちゃいましょうよ。台所はやっぱIHじゃないとだめよね。それがいいわ。名案じゃない。そうしましょう。私超頭いい。ガス追放。電気万歳。ビバ、オール電化!」

なんということだ。
嫁を満足させるだけの火をつけられなかったばかりか、オール電化の購買欲に火をつけてしまったようだ。
面倒なことになる前に、家を出よう。

そんなこともあって、今の俺の生活圏の周辺では、思ったよりも火を必要とする場面がなかった。
せっかくのメラだ。できれば活用していきたい。そしてさらに、できれば他の呪文も覚えたい。
メラのみでは力不足であることを痛感した俺は、旅に出ることにした。
旅といっても温泉や行楽地にドライブするわけではない。修行の旅である。いわばレベル上げだ。
年齢イコールレベルのままではいつまでたってもいい呪文が覚えられない。
旅して修行積んでレベルを上げていけば、ギラ(炎に似た閃光を放つ呪文)くらいは使えるようになるかもしれない。
いやいや、もう少しがんばって、せめてルーラは手に入れたい。ホイミでもいい。修行あるのみだ。
まずは俺のメラの威力が最大限発揮できる場を探さねば。このメラを足がかりにして修行せねば。
今持っている技を磨くということは、レベルアップの近道であり、第一歩であるのだ。


俺は東京の地に降り立った。
単に人が多ければ俺のメラ(火)を必要とする人も多いだろうと思ったわけだ。ああ。早く世のため人のためにメラを打ちたいものだ。

しかし、いきなりだが俺は東京の地で思い知った。
絶望の淵に立たされている。
現代の東京砂漠では、火がそれほど必要とされていないのだ。

社会というものは、一般的に健全でないと判断されるものは、当然ながら隠蔽されがちな傾向にある。
猥褻物やグロテスクな表現物が分かりやすい例である。
これらは確実に社会に存在しているものではあるが、年齢制限などにより青少年の目に(基本的には)触れることなく、ひっそりと供給されている。
さらに、とくに顕著な例が、死の取り扱いだ。
牛や豚が食肉となる瞬間は誰も知らない。生きていれば、かわいいもの、として過剰にもてはやされるし、肉だけの状態になっていれば、おいしそうなもの、というありきたりの表現でテレビの視聴者に伝えられていく。
その中間の状態が隠されている。
現代では死体は決してテレビで放映されることはない。それは人間だけでなく大きな動物(哺乳類?)であれば基本的には映像として流されることはないはずだ。死は人の目に触れてはならない禁忌なのである。
死とはなんなのか、死んでいる状態とはどういうことか、多くの人は知らないし、また知る術は失われつつある。
社会によって意図的に遠ざけられているといっても過言ではない。
だから人は、きれいなイメージばかりを前面に押し出したような得体の知れない宗教に身を委ねるし、まことしやかに霊や魂の話を操るエンターテイナーは大金を稼ぐ。
科学が発達しきっている現代社会にありながら、宗教や占いの類がなぜなくならないのか、これで理由が(少なくとも一部は)説明がつくのではないか?

そして、俺は理解した。東京の地に降り立ち、街を見回して瞬時に理解した。都会には火が存在しないのである。死の概念と同様、火が人目から避けられている!
街頭はもちろんすべて電気である。焚き火はおろかごみの焼却も条例でほぼ禁止されている。
タバコに至っても、歩きタバコを禁止している自治体は増加の一途を辿っている。喫煙所など、もはやアンダーグラウンドな場所なのだ。
社会から火の概念が消えつつある。限られた場所で、限られた者のみが取り扱う、単なる危険物の一種とされている。
これは問題ではないか?
昔の俺達は、平気で火遊びをしたし、花火の打ち合いなどをしてきたはずだ。それが単に危険だ、などという理由で排除されてしまってよいのか?
外だけではない。家庭内でも、オール電化の波は、文明から火という存在を消滅せんとする勢いで押し寄せているではないか。オール電化を叫んでいた嫁も、確実に蝕まれているのだ。
ああ。それはあたかも風の谷を飲み込まんとする腐海の王蟲の如く。
だれかこの勢いを止めることのできる勇者は現れないのか・・・!
しかし残念なことに現代社会にはナウシカもユパ様もいない。
人類史上最大の発見である火。我々がいったいどれだけ火の恩恵に預かってきたか、忘れたのか?
こんなことでは今に天罰が下るのではないか?
火を絶やすということは、それはすなわち、文明が絶えることを意味するのではないか?
地球人類の文明の証である火を絶やしてはいけない!

火!火!火!
火はどこへ消えた?
俺は必死で探した。
炎はどこで燃えさかっているのだ?
道行く人々に声をかけ回った。
火いりませんか?炎すぐに出しますよ!小さいですけど!
メラいかがですか?安くしときます!
しかし、俺の声に耳を傾けるものはいない。
結果、俺は東京の地で、人々から放火魔と罵られ、テロリストと蔑まれ、危険分子と疎まれた。

なんということだ。
せっかくメラが使えるようになったというのに。
小さな火を、ほんの少し自由に扱えるというだけで、なぜ俺は社会から排除されなければならないのか。
こんなことならヒャドが使えるようになればよかった。
ヒャドによって放たれる氷の塊は、大東京に敷き詰められたアスファルトが生み出す都会特有の灼熱地獄に一時の清涼を与える存在として役に立てたかもしれない。
しかしそんなことを言っても始まらない。
所詮メラしか使えない、下級の人間だ。


結局何もできず、俺は東京を去る決意をした。
田舎まで行かなくても、郊外であれば火はまだ必要とされているはずだ。
最悪、火力発電所がある。
メラの炎に魅せられた哀れな男の末路。
さらば東京。
「あのう、すいません」
誰だ。俺のような都会から排除された人間に何の用だ。
「メラ、ひとつもらえませんか?」

見ると、薄汚れた制服姿の少女が俺を見上げていた。中学生だろうか。都会の子らしい、よく整っていてさっぱりとした顔つきだ。
今日もうだるような暑さのはずだが、彼女の周りだけさわやかな風が吹いているようだ。
俺は首を振る。
いけない。いけないよお嬢ちゃん。
この都会では未成年の女の子が火を扱ってはいけないんだ。とっても危険だから、見せられないよ。
そう言ったのだが、少女は俺の目をみたまま、動こうとしなかった。
やがて、目に涙を浮かべながら、少女は語りだした。
「どうしても燃やして欲しい家があるんです。それが存在する限り、私にまとわりつく憑き物が落とせないの」

よくある話だ。
両親を事故で亡くし、呆然としていたところ、遠縁の親類と名乗る男が現れ、わけがわからぬまま、為す術もなく引き取られた。
男の住む家は小さい。今にも崩れ落ちそうな木造の家だ。そこのさらに小さな一部屋を与えられた。
そして遺産相続の手続きをするという名目で、彼女のものであるはずの遺産を全部奪われてしまった。
家や土地などの不動産をはじめ、彼女の父が事業で成功した財産の一切合財だ。
男は自分の家を建て替えるようなことはしなかった。ギャンブルと酒のためだけに、たった数ヶ月でその金を全部食い潰したという。
学校以外、男の承諾なしでは外出することも許されず、満足な食事も与えられない。服がないので夏休みだというのに制服のままだ。
その家を燃やしてしまい、過去を一掃し、人生をやり直したい。それがその少女の願いだった。
「結局、よく調べてみたら親類でもなんでもなく、父の遺産目当てに近づいた、赤の他人だったんです。だから・・・」

俺は少女のためにメラを使った。
たった一発、指先から発せられた小さな炎が、一軒の家と、そこで暮らしていた一人の男の命を消滅させた。
呪文によって発せられた炎だから、証拠は一切残らないはずだ。
湿度が高い真夏の明け方だったが、昔ながらの小さな木造住宅は、さっくりとよく燃えた。あっという間だった。
ためらいはなかったし、悔悟の念もなかった。
ただ、都会といえど、まだまだこのような木造の住宅は残っているものなのだな、と感じた。
火も死体も、人の目に触れてはならないものだ。
火は周囲に引火する前に素早く消し止められ、男の死体は警察によって瞬時にいずこかへ運ばれていった。
どちらも、見事な速さだった。

これからどうするつもりなのか、少女に尋ねようと思ったが、やめておいた。
まだ若い。がんばって人生をやり直したらいい。
「あの・・・」
立ち去ろうとした俺の背中に、少女が声をかける。
「お礼をしたいんですけど、いくら払えばいいですか?お金はないんですが、その・・・」
ばかなことを言っちゃいけない。礼なんかいらないよ。
元気に生きてくれれば、それでいい。お父さんやお母さんの分まで、しっかりと生きるんだ。
俺は振り返らなかった。
もはや帰るところがないのは、俺も同じだ。
俺のほうこそ、少女を見習って強く生きていかなければならない。


夏。
お盆。
本来であれば、家に帰ってくる、ずっと昔に死んだご先祖様。

少女に教えてもらった、彼女の父と母が眠る墓。
彼らの場合は、帰る家がもうないから、お盆ではあるがお墓に線香を手向けても問題ないだろう。
線香に火をつける。
こんなところで、メラの呪文が始めて自分の役に立った。
死と火は、ここでも隣り合わせだ。遠ざけられているはずのもの同士が並んでいる。

社会が自らの意思で何かを排除しようとすれば、それに乗じて利益を得る人間がかならず存在する。
宗教家、もしくは霊や魂を商売道具にしたタレント達に見習って、
俺もこのメラで一稼ぎするとするか。
もう少し、この東京と向かい合って生きてみよう。やはりこの都会のどこかで火は必要とされている。
その人のために使っていこう。
俺は都会に生きるメラゴースト。
死という概念に取り囲まれたこの墓地から、小さな決意の意味を込めて、すっかり陽の昇った東京の空に向かって一発放ってみる。
メラ!
しかしそれは、小さな火の玉などではなく、もっともっと大きな火球となって打ち上げられ、そしてすぐに、シャボン玉のように音もなく消えた。
ああ・・・。
どうやら俺はレベルアップしていたらしい。
しかし覚えた呪文はルーラやレムオルのような便利なものではなく・・・。
ちっ。せめて、ヒャドがよかったな。
火の呪文ばかり。
あついじゃないか。夏だというのに。
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暗黒神
電車の中で、ラプソーンにそっくりな人を見かけた。
もの凄く似ていた。
鼻の形といい、輪郭といい、全体的なバランスといい、
あんなにラプソーンにそっくりな人は見たことがない。
思わず、「ラプソーンですか?」と訊ねたくなったほどだ。
きっと、その人は職場でも、
「ラプソーンに似てますよね」とか言われているんだろうな。
もしかすると、子供の頃から言われ続けているのかもしれない。
でも、それは別に馬鹿にしてるのとかではなくて、
あまりの似すぎっぷりにほとんど感動さえしてしまって、
思わず発せられる「ラプソーンですか?」なのだ。
だからある意味、尊敬に近い。
俺も尊敬した。
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黄金時代のシンフォニー
今さらだけど鳥山明は絵がうまいなぁと思う。
ドラゴンボールとスラムダンクを一緒にやってた時代のジャンプはまさに世界に誇れる漫画雑誌だった。
漫画自体もそうだが、特にカラーのイラストは垂涎モノだ。
つの丸も含めて、あの頃のクオリティの高さを思い返してみると、正直、今のジャンプが同じ値段で売ってるのは詐欺なんじゃないか、と思う。
しかし、漫画というのはどんなに上手い絵でも下手クソな絵でも、売ってる値段は全部同じ、という不条理な状況にある。
絵の良し悪しはともあれ、神様といわれる手塚治虫の単行本も、何だかよくわからない新人の描いた何だかよくわからないパクリみたいな全一巻の単行本も、ほとんど同じ値段で売られているわけだ。
まあ、値段で価値が決まらないところに漫画と芸術絵画の違いがあるのかもしれない。いや、その違いは原本と印刷物の違いだろうが。

それにしても、値段と品質がイコールでない商品というのも変なモノだ。
馬鹿みたいに高いチョコレートは、きっと馬鹿みたいに高い原材料を使って、馬鹿みたいに金のかかる作り方をしているだろうから、
最終的に出来上がったチョコレートが馬鹿みたいになるのも納得できる。
しかし、金箔のスクリーントーンとかダイヤのGペンとか、イカスミ入りのケント紙とか、馬鹿みたいに高い道具を使って、馬鹿みたいな漫画を描いても、やっぱりせいぜい500円そこそこのまっとうなコミックスになってしまうのだから、漫画ってちょっと切ない。
もちろん、映画や小説や音楽なんかも同じ。
僕たちが買っているのは、馬鹿みたいに金と労力をかけて作られたオリジナルの何かじゃなくて、そこから安く大量に生産された何かのコピーなのである。
コピーだから値段は均一。映画なんて感動の複製だ。と言ってみたいものだが、このコピーはいくら回数を重ねても劣化しないのでわりと優れものである。

ともあれ、モノの価値が曖昧になりつつある世の中だ。
優れた芸術作品まがいのものが大量に生産されて、ほとんど消耗品のように扱われていることもあれば、小学生の夏休みの工作に毛の生えた程度のモノが、やはり先の芸術作品まがいのものと同じく消耗品のように親しまれていたりする。
エンターテインメントに関していうなら、価格に大差がないだけに「高かろう良かろう、安かろう悪かろう」という金言も通じない。
無理矢理通じさせた場合、ジャンプKC<モーニングKCという状態になる。

ふと疑問に思うことがある。
いったい僕たちは何に対してお金を払っているのだろう?
その値段はどうやって算出されているのだろう?
商品の内容で値段が変動しない以上、それは主に原材料費なのでは?
つまり、僕たちが買っているのはあくまでも物体なのか。
Feの塊に金を出しているのと同じことなのか。
でもそう思うとなんだかがっかりするので、好きなアーティストのCDには、ほんの少しでも彼らの魂が封じ込められていると信じたい。
ゴミ箱に捨てられたジャンプはただのゴミだけれど、みどりのマキバオーはゴミじゃない。ベートーベンの交響曲がCD1枚分の原価と同じ価値しかなかったとしたら、それはあまりにも冒涜的すぎる。
僕たちがお金を出して購入しているのは、単にインクの染みこんだ紙の束じゃなくて、みんなそれぞれにインク以外の何かが染みこんだ作品であるはずなのだ。
いや、そうでなかったら売っちゃいけないし、買っちゃいけない。
でも世の中には色々な人がいるから、ビートルズの歌が好きなんじゃなくて、ビートルズのCDが好きっていう純粋なCDマニアがいても不思議ではないな。
やっぱりビートルズのCDは蒸着膜の反射具合が違うよねぇ、うひひ。
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